堅実さんのブログ
天神様、藤原道真 3年1月15日(金) 12時54分
日本で、神社、仏閣で、実在した人物で、1番人気は、何といっても、菅原道真であろう。徳川家康の、東照宮もあるが、天満宮と言われ、全国各地にある神社。なかでも、京都の「北野天満宮」は「太宰府天満宮」と共に、異才を放つ。天満宮、菅原神社は、全国で、1万2000社あるという。
この道真は、学問の神様としても、それこそ、超有名である。毎年、受験シーズンでは、受験生が、天満宮にお参りし、合格祈願することでも、知られている。
この菅原道真は、幼少から、英才教育を受け、京の文章博士(もんじょうはくし、東大教授と、文科省の大臣を兼ねたもの)になる。そして、讃岐の国(香川県)の国司になる。
ここで、道真は、時の権力者、藤原氏に、書状を書く。天皇を補佐する職は、その職務を十分にすることが、国の政治であり、国は、安定すると。このことから、道真は、天皇の、側近(おそばやく)に、返り咲く。
やがて、道真は、遣唐使を、仰せつかる。しかし、当時の唐は、国が混乱している状態である。そこで道真は、遣唐使を、一時中断することを、進言する。
そして唐は、遠からず滅びる。このことから、時の宇多天皇と、醍醐天皇の信頼を得て、右大臣になる。しかしこれが不運の始まりである。
時の権力者、藤原氏には、権力の危機感を抱かせ、時の藤原の左大臣は、道真は、朝廷に逆心ありと、デマを流す。
そして、道真は、6日後に大宰府に左遷される。この時の歌が「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな 」である。
大宰府での道真の生活は、困窮そのものであった。国司と言いながら、その職務が、全く無いのである。幽閉されたのである。その日の食べ物にも困った生活だった。
食べるものにも、こと欠き、身体はやせ細った。近所の人から、食べ物を分けてもらう、有様だった。家はボロボロで、修理など、全くなかった。囚人同様の生活だった。そして、失意のうちに、その生涯を閉じた。
この後、京では、飢饉、災害、藤原一族の、相次ぐ死亡。そして極めつけは、宮中が、落雷による被害を受けた。この落雷で、藤原氏の数人が被害を受けた。これ等は、すべて、道真の怨霊による藤原氏への、たたりだと、思われた。当時では、悪霊、怨霊の存在を信じていた時代でもあった。
相次ぐ、不幸に、みまわれた藤原氏である。そこで、藤原氏は、京に天満宮を建てて、藤原道真を、今度は神様とした。北野天満宮である。これが、現存する、天神様である。
そして、藤原氏は、落雷で、苦しめられたことで、道真を、雷神としたのである。これにより、道長は、雷神ともなり、五穀豊穣の神様ともなったのである。
世の中は、分からない。菅原道長は、一時は、怨霊、悪霊であると恐れられ、神社に祭り上げると、今度は、神様になった。そして、学問にいそしんだ道真は、今では、受験の神様となっているのは、ご存知のとおりです。
実在した人物であり、勉学に、日夜、努力した人であった。その人間的な魅力が、現在でも、神であり、人である道真に、人は心を、引かれるのであろう。
(令和3年1月15日、18時50分、修正)
(令和3年1月15日、21時33分、2度目の修正)
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