堅実さんのブログ

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利休の切腹 2年7月9日(木) 19時42分

(みん株のブログ、書くほどに、損を出し。)

 これは、先人に学ぶ、知恵の泉から、作成しました。秀吉の寵愛を受けた、千利休が、何故、切腹に、追い込まれたのか、本能寺の信長殺害とともに、戦国時代のミステリーと、されている。

 秀吉は、ないないの事は(日本の政治の事務は)利休にと考え、戦国大名相手に、まず利休に担当させた。利休は商人であり、茶人である。その利休に、茶の湯から、大名にいろいろ、交渉をさせた。つまり秀吉には、ナンバー2の利休に、大名相手の、事務全般をさせたのである。


 茶の湯で、ある大名は、利休の顔ばかり見ていたという。落ち着きはらった、この一人の人物に、魅せられたのである。それほど、利休の茶は、落ち着き払って、気高い、荘厳なものだったらしい。


 しかし、次第に2人の中は、悪くなってゆく。九州から東北まで、支配下におさめた秀吉は、自ら考えた茶の湯のしきたりを、利休に要求した。利休は言われるままに、秀吉の言いつけを守った。

 が、しかしそれは形式であり、本当の茶の湯は、形など無いものだと、ある大名に話した。これが茶の湯に、形式などないという由来かもしれない。


 しかしこれが、秀吉の耳に入った。秀吉としては面白くない。日本を一人で、支配しているプライドが、あったのである。俺が決めたことを、利休は、心から守ろうとしていないと、感じたのである。

 

 そして、利休にとって、悪い噂が流れるようになった。それは、茶器を、高値で売り、それで大儲けしている。もう一つは大徳寺山門に利休の像を建てたというのである。


 いずれも、利休の出世を、妬む人々が、広めたものである。茶器を、高値で売り、大儲けしているというのは、これは、本当ならば、「侘しい、さびしい」の茶の湯にとって、不可解なことである。利休は私服を、肥やそうとしていたとも、思われる。


 大徳寺の山門の利休像は、利休が大徳寺に寄付をしたので、大徳寺が建立したのである。その下を秀吉が、通るのを、上から見下ろしているというのである。


 そして、いよいよ、利休は堺に蟄居(ちっきょ。今でなら、自宅の謹慎で、たいがい、死罪になる)を命ずられる。

20日間の蟄居の間、大政所(秀吉の母)、ねね(秀吉の妻)は、再三に、利休に秀吉に詫びる使者を使わす。しかし、利休は、頑として、利休に、詫びようとはしない。そして、秀吉は町人である利休に、武士のような、切腹を命ずる。切腹の使者に、利休は最後の茶を出したという。


 これは、会社で言えば、ナンバー1と、ナンバー2の,「いざこざ」とも言える。社長と、副社長との間の、意見の違い、方針をめぐり、対立することは、しばしばある。その時に、お互いにどう行動したかである。


 秀吉の黄金の茶室のように、秀吉は信長と同じく、派手な、茶会を楽しんだ。これと、利休の、粗末な茶碗の茶は秀吉には、好まれなかった。


 ここで、考えることは、利休は、利休の考える茶会を、追求したことである。侘しい、寂しいの、気持ちを、静かに考える事を、茶をとうして、味わおうとしたことである。一期一会の考えを、考えていたことである。天下人が、何と言おうと、利休の考える、人の一生の短さを、味わいたかったのである。

秀吉としては、秀吉の方針を、利休にやってもらいたかった事である。それが、認められないなら、利休は必要ないと、考えたのであろう。


 ここで、私はこう思う。それは生きてこそ、出来ることが有るのである。この場合は、利休は、秀吉に詫びて、形式では、秀吉の言うとおりに、すべきだったと思う。妥協すべきだったと思う。この考えは、株式投資でも、現れている。とにかく、生き延びなければ、その次のチャンスを、ものにすることが出来ないのである。


利休は、おのれの、考えを、押しとうした。しかし、そのために、死ななければならなかった。考えさせられるが、やはり、少しは折れても、その後の展開を、心に留めていくのが、良かったのではと判断する。



1件のコメントがあります
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    堅実さん
    2020/7/9 20:07

    堅実です


    これは、処世術の一つでは。

    生き残ってこそ、次があるのです。



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