ほんま そうかいさんのブログ
平成相場三昧伝 還暦記念速習49日間(死の哲学)
☠チベットの死者の書を讀む第26日目
「善人なをもて、往生をとぐ。いはんや悪人をや。」
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をとげんとするとき、すなはち摂取不捨の利益にあずけしめたまふ。」歎異抄
卍親鸞聖人の教ゑでは、悪人でも浄土(≒リクパ【チベット仏教】)に生まれ変われる。いや、悪人のほうが、仏法的には、正しいポジションにゐる(悪人正機説)。
いやまぁ、それは十分慚愧がともなっての話だろ。
無慚無愧の悪人は、だふかな?
チベット仏教的には、「死ぬ瞬間」が重要で、いはば物理で言ふところの「エネルギー変換」が起こるわけだから、ラマ僧の法力が高くて、ご本人が過去、悪業を積んでいたとしても、死に際が良ければ、転生はうまくゆく。
ラマ僧は、ポワ(転生)の技術を知ってゐる。
これに反して、いくら善人でも、死に際が悪ければ、転生は、うまくゆかなひ。たとえば年が若くて肉体や現世に執着があったり、ま、やっぱ横変死・突然死のたぐひ。
僧侶の力不足もあるだらふ。
死ぬ瞬間には、現世のカルマが焼き尽くされる。悪人正機説も成り立ちうる。
それにしても、たった一度だけ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、浄土に生まれ変われる・・・・・なんか、一回でも保険料を払えば、遺族年金は払われますよ・・・・とも受け取れる。便利だな。
ボクの家も浄土真宗の門徒ですけど、あんまりポワには、期待は、できなひな。
真宗のお坊様方は、修行は、なされなひ。絶對他力だから。
また明治の青年を感動させた「歎異抄」。これは、日本語で書かれた素晴らしゐ書籍だけど、死の哲学ではなひ。
父子相克のドラマだ。なくなく泣ひて、これを記す。外見あるべからず。と記されてゐて、門外不出。明治時代に公開された。
浄土真宗本願寺は、明治時代の文明開化を受け入れて、あんまり洗練されすぎたのではなからふか。歎異抄を戯曲化した倉田百三「出家とその弟子」。
これを、たとえば今東光師に言はせれば「真宗の人に言はせると、ありゃキリスト教だ」となってしまふ。
なに?真宗のお坊様方は、耳が痛い。
いいぢゃなひの。チベット仏教を見てみろよ。文化大革命で、2年ほど佛教は、やめさせられた。
高僧たちは、殺された。しかも中国式・人民解放軍式だから、簡単には殺しちゃくれませんぞ。拷問附き。
また尼僧たちは、犯された。もちろん中国風・性的拷問附き(性器に電流流すとか)。さらに寺院は、豚小屋なんぞにされた。
それに引き比べると、本邦では、憲法でチャンと宗教の自由が保障されてゐる。霊園開発、納骨堂、etc。ビジネス大当り。結婚、マイホーム。ナイト・ライフでも大活躍。
日本のお坊さん方は、みんな良い暮らしをおくっています。
よかったね
。
第26日目 おはり