jojuさんのブログ
★武士道精神も日本敗戦の要因(無人兵器。厭戦は戦争惹起)
昨日の読●新聞に、第二次大戦(太平洋戦争)についての特集あり。
朝●や日本経●新聞のようなデタラメがなく、事実を正確に記そうとするとこに好感が持てました。
その中には、日本の敗戦の原因も色々書かれており、いずれも理に適ったものだったですが、一点、大きな見落としがあると感じた次第。
それは、日本軍が「武士道精神」で生真面目に戦い過ぎた点(間違った方向に生真面目になった、とも言える)。
(国民益を考えれば)戦争に勝つこと、もしくはより有利な負け方をすることが戦争の戦略目標であり、それを合理的に追求すべきだったのに、「武士道精神」を貫くことが目的化してしまったようなとこが多々あったのです。
だから、日本軍は敵機を撃墜しても搭乗員にとどめを刺さなかった。 敵艦を撃沈しても乗組員にとどめを刺さなかった。 米兵は戦闘機を撃墜されようが、艦船を沈められようが、何度も「職場復帰」できたのです。
(撃墜した敵機からパラシュートで脱出した米兵、海上に放り出された米兵にとどめをささなかった事例は激戦のニューギニア、敗戦間際の本土空襲でも!ある。 殺さなかっただけでなく、敬礼で見送ったりしてる。 艦船を撃沈され放り出された米兵たちを甲板総出で敬礼でやり過ごしたりとか、米兵を唖然とさせる事例は多かった、、、そうして、最終的に、こうした日本兵たちは下記、1対数十のようななぶり殺しにあった。 日米の「職場復帰率」の格段の差異は当時の記録からも定量的にわかる)
いくら米軍に物量があろうと、熟練した戦闘員がいなければ使い物にならない。
日本軍が米軍搭乗員、乗組員にとどめをさせば物量戦に持ち込まれることはなかった。
兵器は数か月で量産出来ても、熟練戦闘員を「作る」には最低20年以上かかるからです。
一方、米軍は日本軍とは逆に、(戦略目標に忠実かつ合理的に!)日本兵にしっかりとどめを刺しまくった。 だから、太平洋戦争は物量戦の度合いを増していったのです。 一機のゼロ戦に数十機の米軍戦闘機が群がる「なぶり殺し的状況」になったのです(1対3くらいならゼロ戦有利だったのに、、。 日本軍ならこうした状況では、武士道精神に反するから、多勢に無勢は卑怯だからで、1対1の空戦をやったかも、、、偉大(?)なるアマチュアリズム)
こうして早期に圧倒的劣勢になってしまったから、日本軍は良いタイミングで有利な負け方をする機を失った(それが出来ない状況に追い込まれた)。
圧倒的劣勢で破れかぶれになってしまい、明治以来の先祖の驚異的努力での蓄積、資産を全て灰燼に帰させてしまった。 真面目に戦った有意な人材を沢山無くし、逃げまくった人間(例えば、漫画家の**さん、俳優の**さんなど)が多数生き残って戦後の左翼運動(デマの言いたい放題)の隆盛を招いた(戦争は大規模になるほど、事後、人材の質の劣化も大きくなる)。
で、逃げまくった人間ほど、戦争の悲惨さだけを言いつのる(だからこそ逃げまくったわけですが)、、尾ひれもつけて(尾ひれを付けないと、逃げまくった自分を正当化出来ない)。
強国から戦争に追い込まれ、戦わざるを得なくなった経緯(防衛力の弱さがそれを招く)は一切無視される。
最近の映画、「風立ちぬ」「永遠のゼロ」もそういう風潮を煽るものと思う。 かえって危険、戦争惹起的です。
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「武士道精神」は文化的遺産かも知れないが、それはあくまで「遺産」であり、時代に応じてより合理的に修正されていくべきもの、もしくは脱ぎ捨てられるべきものだと思います。
中世封建制の維持に都合が良かった「儒教」が廃却されたように、「武士道精神」も歴史書の中だけにとどめたほうが良いのかも知れません。
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近年、無人兵器の開発が各国で進んでます。
兵器生産は数か月だが人材「生産」は20年、30年がかりなこと、となりに圧倒的人口の独裁軍事国家があることからすれば、日本の防衛にこそ無人兵器は必須でしょう。
兵士を使わず、無人兵器の戦闘だけで済むならば、それに越したことはないのです。
少なくとも無人兵器があれば、初戦での人命損失はかなり抑えられるはず。
で、民主主義の先進国優勢な現在の世界体制では、初戦段階で独裁国家を戦争終了に追い込める確率も高い。 優秀な無人兵器が大量にあれば、国土を一部失うとこまで継戦されるリスクはかなり下げられます。
中国が無人兵器開発にまい進してる状況を知りつつ、日本のマスコミ(日本経●新聞など)が無人兵器開発けん制論調なのは不可解。
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権左衛門さん
たびたび補足ですが、当方も、安倍政権の秘密保護法案に反対の立場です。
機密保護自体は非常に重要ですが、現在の内容では、機密保護でなく利権保護法案に転化するからです。
その詳細は当方過去日記に書いたとおりです。 今のままでは国民益に逆行するので、早期改正を目指すべきと思う次第。
ダビデさん
どうもです。
最近は、どこの国も力を入れだしてる分野だし、防衛含め兵器開発は国家の主権なので非難などないでしょうし、マスコミ経由の作られた「国際批判」があっても反論して開発すべきと思います、、、こと防衛に関することだし、人命のためなのですから。
米国の支持云々や情報開示はむしろ逆で、主権として、ある程度の技術蓄積をするからこそ、いい共同開発が出来るのでは?
この程度のごり押しは日本よりはるかに国力が劣る国でもやってることであり、そこまで進む気構えがないと、技術だけ取られて高い兵器を買わされることになるでしょう。 兵器の維持も自前でできなくなるのでは死活問題です。
イスラエルでないけど、ロビー活動を強化して(敵にあめ玉を与えるのでなく、味方になる人間に重点的にばらまく)、独自技術確立まで進むべきと思います。
日記を読ませて頂きました。
無人兵器の活用する事は私も大賛成です。
何よりも、科学技術の優れたこの国ならではの多様な兵器を造り出す事は可能でしょう。
日本が単独開発すると国際的に非難を受けやすいから、やはりアメリカを引き込み技術開示してでも支持させる。
共に環太平洋の安全保障を強固にする必要があるのではないかと思います。
これからの戦争は白兵戦に持ち込まれたら既に負け、ということになるように思います…
どうもです。
そうですね。 日本の「剣術」、「柔術」は本来、合理的に効率的に敵を倒す技術でしたが、明治以降、「剣道」、「柔道」になって、その真逆になり、精神論に転化しました。
僕が書いてる「武士道」は正にそれです。
しかし、平安時代~鎌倉時代の「武士道」(もののふの道)も結構それに近いものがありますよ。 名乗りを上げての1対1の戦闘が重んじられたり。
同族同士の争いだった日本では、戦闘行為の中にも儀礼的なものが求められるようになったし、そこには仏教の影響もある。
(源義経はそれを破りまくったから強かった、、、当時としては兄弟そろって異質な存在)
同じ状況はクリスチャンであり同族争い頻発の中世欧州でもあり、それが「騎士道」につながったわけでしょうね。
ともあれ、異民族とやりあう時代、異民族が入ってくる時代には合理的精神に立ち返ることが必要なのでしょう、、、国民益に即せば。
おはようございます。。。
真面目に戦った有意な人材を沢山無くし、逃げまくった人間(例えば、漫画家の**さん、俳優の**さんなど)が多数生き残って戦後の左翼運動(デマの言いたい放題)の隆盛を招いた(戦争は大規模になるほど、事後、人材の質の劣化も大きくなる)。
で、逃げまくった人間ほど、戦争の悲惨さだけを言いつのる(だからこそ逃げまくったわけですが)、、尾ひれもつけて(尾ひれを付けないと、逃げまくった自分を正当化出来ない)。
正しく、現在の芸能界の重鎮と言われる連中は、これに極まりますね。。。
今回の特別秘密保護法案に対する反対は、常軌を逸していましたからね。。。
ただ、本来の武士道は、卑怯の塊であり、なによりも【生き残る事】に重点を置いていたのですが。。。
その上での、【武士とは、死ぬことと見つけたり!】と成るのですが。
つまり、生き残るために、卑怯な事も何でもありで、考えられる事はすべてやりそれでも、だめだったら、【刃の下に活路を見出す!】的な感覚で、
=武士は死ぬことと見つけたり=と自分を納得させたのだと思います。
そして、そうする心構えで居る事で、死に物狂いに成る事が出来
【生き残る事が出来た!!!】
よい例が、関ヶ原の合戦で、
10万人の敵に1000人が挑んだ戦い
彼は戦闘が決着した後で1000名の兵(一説には300人)で、10数万の徳川家康率いる東軍に向け、正面への退却戦を敢行。残存兵60人(一説による)
と生き残り、国に帰還した。そして勝者の家康と外交を重ね、所領の薩摩・大隅・日向南部(現在の鹿児島県と宮崎県南部)を維持した。関ヶ原の敗者で、所領
がそのままだったのは島津家しかない。
絶体絶命の窮地に陥っても「死中に活」を求めることのできた希有の例だ。
http://agora-web.jp/archives/1508382.html
義弘は部下たちに「国を守るため、貴様らの命をここで使い捨てる」という壮絶な命令を下し、兵士は従う
これは、団体の場合ですが、個人では
宮本武蔵ですか。。。
戦い方は、ある種卑怯極まりないものがありますが、なによりも
生き残る事が第一の武士道ならば、当然なことであります。
だいたい武士の信念を考えてみると、武士は平常からいかに立派に死ぬかというふうに思われ
ている。死を覚悟することにおいては武士ばかりではなく、出家であっても、女であっても、百姓以下に至るまで、義理を知り、恥を思い、死ぬところを決心す
ることは少しもかわりがないのである。
武士が兵法をおこなう道はどんなことにおいても人に勝つということが根本であり、あるいは一人の敵との斬合いに勝ち、あるいは数人との戦に勝ち、主君のため、わが身のため名をあげ、身を立てようと思うことである。これは兵法の功徳なのである。
http://higashiooi-machio.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-6b4d.html
戦国時代とその後の生ぬるい江戸時代の武士道が違がってくるのは、仕方がないのですが、どうしても、平和が続くと観念的になってきて。。。
「武士道精神」は文化的遺産かも知れないが、それはあくまで「遺産」であり、時代に応じてより合理的に修正されていくべきもの、もしくは脱ぎ捨てられるべきものだと思います。
は、確かにそのとおりですが、
武士道に関して言えば、=本来の物に立ち返るべきだ!!!=とおもいますね。。