堅実さんのブログ
人間としての自由 23年7月16日(土)10時36分
今までの、日記の反応を見ていて、こういう「人間としての自由」という日記は人気が無いです。しかし、今日は、自分の生き方を大事にしていきたいと考えている人も,数人いると思われるので、あえて、書いてみました。
人間としての自由は、本「森田療法、岩井寛、講談社現代新書」からです。
著者は、ガンで、あと数日の日に、口述筆記で、まとめたものです。まとめた人は松岡正剛さんです。
そのーおわりに ー生と死を見つめてー からです。
著者は、最後は、目が見えなくなり、下半身まひで、そのような状態で、話した事です。
人間は、とことんまで追いつめられてもなおかつ意味のある生き方をすることができる。
では、なぜ、これほど辛い思いをしても本を書くのか、と問われれば、それは、最後まで人間として意味を求めながら生きたい、からである。何もしないで、ただ、苦しさと闘いながら生きていることもできる。一方、痛みや苦しさと闘いながら口述筆記をすることもできる。つまり、どちらかを選ぶことができるのは、筆者自身なのであり、それを決定するのも筆者なのである。
前者の生き方を選んだならば、筆者にとって楽である。しかしそれでは、人間としても尊厳を守りたいという「心」は満足させられない。
筆者は、自分が可能な限り、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、身体が動かなくても、人間としての自由、を守り通してゆきたいのである。(これが、締めくくりの言葉。)
一寸、言葉がでませんが、この人は最後まで、生きる意味を求めました。それは個が全体にたいして、どのような対応をするかということです。自らの考えていることを、遺言としてまとめました。
みん株の会員のかたにも、様々な、考えの方がおります。自分の生き方、生命時間を大切にして生きていかれる事をと、考えております。また、意外なことに、この日記はみん株会員以外の方が見ておられます。健康に留意され、一日を大切に生きられることを、お願いいたします。
-
タグ:
nyajyara さんへ
天(有るとしたら)は、平等では有りません。
知的障害者は、私の親戚にもおります。障害者の周囲(親、兄弟)は、影響が大きいので、やはり苦労しております。時間が取られ、各自の生活時間が少なくなるなどです。
いろいろ、考えますと、自分の出来る事は、全く無いというくらい、わずかな事だけです。ここが、全知全能の神とは、異なります。
時々、日記に書きますが、これを緩和(負担を少なくする)のは、社会(政治)です。個人の能力には、大きな限界が有ります。壁に、ぶつかった、状態で動けません。
今日、政治体制の事を書こうかと、思っておりました。3流の政治では、生活水準を落とすしか有りません。2世、3世議員は、望ましく有りません。
尽きるところ、選挙の方法を、変えるしか無いと、思います。誰でも、立候補出来る、選挙制度です。
希望としましては、ネット社会ですので、ネット組織からの政党が、誕生してよい時期です。(ネット政党については、以前、何度か、書いた事があります。)
こんばんにゃ。
最期までこういうことができるのも、知的障害がないからです。
知的障害者は身体障害者よりも辛い。仕事はまともなことはできません。1日500円くらいの作業所だけ。
近所に姉妹揃って知的障害者がいて、両親はさじを投げたのか、両方とも施設で暮しています。
お姉さんのほうがnyajyaraになついて、時々フリマで買ってくれるのですが、2割は値引きします。
あるいみ、知的障害者は一番かわいそうです。
ローズガーデン さんへ
この様な日記は、読んでくれる人が極端に少ないです。以外ですが、みん株会員以外の人が、結構、予想以上に読んでくれている様です。みん株の「あしあと」の数からして、計算が合わないので、そう推測いたします。
そんな、少数の人でも読んでいただいている。だから、手抜きの日記は、その日の体調にもよりますが、書きたくないです。(疲れていて、あと10分で書きあげたいという、時も多いですが。)
昨日、古い本を、取り出して、何気なく、開いたものです。もしかしたら、ある人が日記に書きなさい。と指示したのかも知れません。
どのように生きようとその人の勝手です。それを、とやかく、いうのもどうかと思います。
ただ、今の社会は、情報量ばかり多くて、必要な情報が埋もれやすい事もあると、思います。
悪貨は,良貨を駆逐する。(品質の高い金貨はタンスにしまいこみ、同じ価値で流通する品質の悪い金貨が、市場に出回る。これは、普通の人の判断です。良貨は元々、悪貨より品質が高いので、良貨は悪貨と価値が同じでない。価値の低い悪貨だけが流通する)のと同じ様に、価値の無い情報だけが、支配していると言えば、そうではないと、意見がでるでしょうか。
こんにちは
>人間は、とことんまで追いつめられてもなおかつ意味のある生き方をすることができる。
では、なぜ、これほど辛い思いをしても本を書くのか、と問われれば、それは、最後まで人間として意味を求めながら生きたい、からである。何もしないで、ただ、苦しさと闘いながら生きていることもできる。一方、痛みや苦しさと闘いながら口述筆記をすることもできる。つまり、どちらかを選ぶことができるのは、筆者自身なのであり、それを決定するのも筆者なのである。
私がその立場ならどうするか・・・
何もしないでじっと苦しんでいるのは嫌ですね。
何かできることを考えると思います。
いいお話を有難うございました