堅実さんのブログ

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横手曹長 28年8月13日(土)12時47分

 今日は、お盆の入りです。生家では、夕刻に、迎えお盆のため、提灯をもって、お墓に迎えに行きます。しかし、もう提灯は使う人が少なくなりました。

(過去に投稿したブログです。読みかえして、涙が出てまいります。これが戦争です。憲法9条は堅持すべきです。もし、このことを知っていれば、ご連絡ください。)

 先ほど、昼寝中に「横手(田、多、太)曹長」のことを思い出しました。横ははっきりしているのですが、手か、田か、多か、太かが不明です。既に話した叔母は、死んでいるので、聞くことが出来ません。ここでは横手曹長としておきます。

時は、昭和20年頃です。場所は現在の高崎市です。旧群馬郡群馬町です。通称「堤が岡飛行場」と呼んでおりました。わたしが幼い頃、コンクリートの滑走路跡が未だ有りました。

 その横手曹長の生まれは、中国地方で、現在の広島か岡山か山口かこの辺りの出身です。家族は親がいなくて、どういう訳かわかりませんが、継母に養育されたということです。この頃は、食糧難の時代で、家庭の収入も現在よりは数分の一で、食べ物にさえ不足していた時代でした。この頃よく聞いた話ですが、母親の無い子供はよく、虐待されたことを聞いております。アニメの「蛍の墓」にもあります。

横手曹長は、この厳しい生活から何とか生活するために軍に入りました。そしてこの航空兵の飛行訓練所、「堤が岡飛行場」に来たのでした。そこでも食糧が乏しく、叔母の家(農家)に来て、何か食べ物は無いかと、貰って食べていました。叔母はそこで横手曹長の生い立ちを聞いたのです。今ではほとんど、食べないですが、芋を吹かしたものをあげると、喜んで食べたということです。

何度か来るうちに、横手曹長に出撃の命令が下りました。特攻作戦です。これは一度、群馬県から他の県への移動だったのかもしれません。沖縄作戦としては、群馬県は遠方すぎるからです。

その前日、横手曹長が渡す人がいないというので「形見の品」を叔母に渡しました。そして「明日、飛行機で叔母の家の回りを、二回飛ぶので、見てくれ。」と言って帰りました。

翌朝、庭に立っていると飛び立った飛行機が、2回旋回し、ハンカチを振っているのが見えました。そして羽を数回、左右に上げ下げして、去って行きました。

 これが叔母の話です。考えると、何とも薄幸の人です。生まれながらに、苦労して、およそ人の幸せというものを感じずに、若くして世を去ったのです。

 今、自分の周囲を見ますと、「こんなもの、まずくて食えるか。」という人に、このことを話してやりたい気持ちです。

 



 



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2件のコメントがあります
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    堅実さん
    2016/8/13 23:57

    ほんま そうかい  さんへ


    詳しい、コメントを頂きまして、お礼申し上げます。


    昔、新婚旅行で、指宿には、宿泊した事が、あります。

    そこで、小さな、美術館に立ち寄ったことを、思い出します。

    それと、場所は忘れましたが、何処かの、慰霊碑のある、基地に寄った事が、あります。近くに自衛隊の駐屯地が、有ったと思います。

    年の暮れで、誰も、いない所でした。

    その時の、タクシー運転手は、何で、そんな、人が訪ねない処を行くのかと、不思議がっておりました。


    鹿屋基地は有名で、ラジオから出撃したというニュースが流れたそうです。


    昭和20年の4月から6月にかけて、特攻機が、連日、10機、20機と、沖縄めがけて、出撃しました。ほとんどが、九州からです。

    これは、特攻という、書籍の巻末から分かったことです。

    よくも、これほど、ゼロ戦が残っていたとも、思います。

    この頃が、一番、激しい、特攻作戦でした。


    特攻では、賛美する団体が有ります。しかし、否定するとか、賛成するとかの以前に、尊い命を捧げた事を、まず思います。なぜ、死ななければ、ならなかったのかという事です。やはり、特攻には、国思う気持ちが、少なからず、あったと、思います。同時に、何故、俺が、特攻でいくのかと、悩んでいたはずです。


    今の、わがままを言っている国民は、少しは、考えて欲しい、処です。


    まとまりませんが。


    23時55分




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    堅実さま。

    小生の住まう鹿児島縣にも、特攻隊基地は多いです。知覧、万世、指宿、鹿屋もちろん鹿児島市にも。

    同期の桜は、勇ましいけれど、戦争末期ともなれば、やっぱり、神風残酷物語も聞こえてきます。

    例えば、指宿海軍基地のばあい、断崖に洞窟を掘って、水上機(いはゆるゲタバキ)を隠し、沖縄への逐次投入をしていたのですけれど、二式水上戦闘機のような名機もあるにはありましたけど、ほかは零探などのような観測機や名前も覚えられないような水上輸送機、ニ葉機。

    この場合、単座でなく、複座で、もう、そもそも交戦する気もないから、銃座も取り外し、重しがわりに、少年飛行兵を乗せたそうです(いわゆる日本軍特有の員数合わせ)。

    ただ神風を、無碍に否定したり、無視したり、はなはだしきはバカにすることだけは、小生には、出来ません。日本を無差別攻撃していたのは、米軍でしたから。                      拝