堅実さんのブログ

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送りお盆の日 8月16日(日)14時49分

  昨日、「大阪都構想の真実」を何故、書いたのかを日記にした。大抵の読者は、「よくやるねえ」という感想を持ちながら、読まれた事と思う。我ながら、「なんて、馬鹿な自分だ。」と思っている。第一、書いたからと言っても、その効果はどれだけあるか。それは、読者の数からして、その効果は、殆ど無いことはわかる。

 読者の方から、「平和ぼけでよいのか」という内容のコメントを頂いた。たしかに、そのとおりだと思う。我が国を取り巻く状況は、北朝鮮、ロシア、それに中国の東シナ海進出と、我が国の防衛上、緊迫する事ばかりである。


そしてここ、平和よりも、軍事を優先すべきだという風潮が、この20年前よりも強くなっていることを、感じている。軍事を優先する、ある種の仮想敵国との均衡のとれた、平和政策である。安部総理の、集団安全保障関連の法案は、この風潮を反映したものと受けとめる。そして戦争の美談を、自己犠牲の話を、マスコミでは報道する数が、多いと感じる。確かに、極限状態でも、将来のこの日本を描き、思い、我よりも、多くの国民を思い死んでいった人の気持ちは尊いと思う。

  ここで、特攻兵のことを、考えよう。かつての太平洋戦争である。技術力と生産力の劣る米と戦うには、この方法が選ばれたのは、合理的判断だと思う。そして特攻兵とその家族を気の毒に思う感情は、誰でも同じである。そして、その事を中心、個人を中心とした美談として話されるように、昨今言われているように思われる。そのことは否定しない。しかし、それだけでよいのかである。この様な話は戦争の話ではあるが、それは、個人を中心とした話である。いくら、感動的な話でも、それを取り巻く、大きな社会の中で考えるのが、この場合よいのではないか。


それは、それでは「何故、そのようにして、若者を死に追いやったのか」である。いくら、国家のためとはいえ、一人の若者、いや数百万の若者を死に追いやった、その原因はどこに有るのかである。この事が、方法としてよいのかである。この方法論は、国家中心の個人を犠牲にした方法は、犠牲の数が多すぎる。国民の生活から考えてみて、採るべき方法では無い。ここに、「平和」という言葉が出て来る。

 あくびが出ようと、のんびりとして、生きていようと、平穏に生きられる生活がどれほど、有り難い事か。このことを、我が国は優先すべきである。


戦争の美談は、他のことを考えない、一個人中心の事が多い。そしてそれは戦争という中の1パーセントにも満たない事ではないか。残りの99パーセントが、戦争の悲惨な事だらけである。殺したくもない人を殺し、殺されたくもないのに、殺され、爆撃で工場、施設、家を破壊され、家族を失い、心が荒廃していくのが、戦争ではないか。広島、長崎の原爆がそのことを、物語る。

 今日は送り盆の日である。生家では、相変わらず、茄子に棒で4つの足を付け、トウモロコシのひげで、尻尾を付けた馬を作る。サトイモの大きな葉で、その馬のエサ(茄子を細かく切ったもの)を載せ、死者をお墓までお送りする日である。この場合、送り火(稲わらを束ねて明るくして死者が無事、お墓まで行けるように願う)を焚き、うどん粉で、団子を湯で、それを一緒に持っていき、墓石の上の置き、死者のその後の食事とする。これは死者だけでは無く、生きている者へも、心の平安を、もたらす。そんな平和な日が続くことを願う。


また、甲子園では、高校野球の熱戦である。平和だからこそ、出来るのである。この平和で有る有り難さを、この機会に考えてもよいだろう。







 



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