ユリウスさんのブログ
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効く文句(4) -心にも身体にも人生にも-
人間は、一個の精神のなかに、子供と大人を同時に持っている。子供の部分で恋を語り、芸術に接し、科学・技術や芸術を創造する。さらには、正義を語る。
だからこそ大人は、終生、自分のなかの至純な子供をひからびさせるべきではないのだが、その方法は小年少女期の教育にある、と伊沢は思ったにちがいない。小年少女期に、童心を純化しておけば、老いてもその人のなかの感受性は衰えない、ということであったろう。
その方法を、伊沢は、スポーツと音楽に見出した。 -司馬遼太郎「街道をゆく(40) 台湾紀行」より- (左欄参照)
ここにいう伊沢とは、明治10年、『小学唱歌集』を編纂した伊沢修二のことです。明治の教育理論の開発者であり、とくに音楽教育において圧倒的な影響を教育界に与えた人らしい。この人のことは後で書きます。
さて、一人の人間の中に大人と子供の部分があるということについては、どなたも異論はないのではないでしょうか。多かれ少なかれ、誰でも子供時代はあったし、誰もが柔らかな感性と純な心をもっていたハズ。翔年は孫(5歳の男児と2歳の女児)と遊ぶ機会がある度に、伊沢修二のいう「童心」を純化しておけないものかと思います。幼児期から思春期までの音楽などの情操教育こそ、もっと考えられてよいのではないか。
今の教育界は子供の問題が起こるたびに「道徳教育」の必要性を声高に叫ぶ政治家が教育に口を突っ込んできたりするのを許す風潮が強い。(政界や教育界の道徳レベルが他より高いとは思いませんけど…) もっと悪いのは橋下市長のように、大阪の教育水準を他県より引き上げるために、手っ取り早くテスト成績の点数で教師や学校を判定しようとするやり方です。小学校の先生が生徒の成績の点数を上げるために血眼になる教育が生徒の勉強嫌いや学校嫌いを助長することを危惧しています。
伊沢修二のエピソードを二つ紹介します。
(1)驚きの才能
23歳の若さで愛知師範学校の校長になった伊沢は、翌年教育調査のため、米国マサチューセッツ州のブリッジウォーター師範学校に入学した。ここで彼は「アメリカでは大人でも、球戯のような、東洋では児戯に類することに熱中していた」と驚いている。当時のわが国は各藩の藩校で儒教を教え込んでいた。儒教にもいいところは一杯ある。が、少年に老成を強いる点はよくないのではないでしょうか?
(2)グラハム・ベルの電話テストに参加
かれは米国の師範学校を卒業し、さらにハーバード大学に入学し理化学を修めたという。そこで電話機の発明者のグラハム・ベル(1847-1922)と知り合う。ベルの電話の最初の通話者は伊沢だったらしい。ベルは日本語の語尾が母音で終わるため、日本語なら電話の音響版に全部乗るのではないかと考えて伊沢をテストに使ったのですね。ベルの慧眼に脱帽です。
Wikipediaの伊沢修二の項です。
伊沢 修二(いさわ しゅうじ、1851年6月30日(嘉永4年6月2日) - 1917年(大正6年)5月3日)は、明治・大正期の日本の教育者、教育学者。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。
信濃国高遠城下出身。貢進生として大学南校に学んだ後、文部省に入る。1874年(明治7年)に愛知師範学校校長となり、翌年には師範学校調査のため米国へ派遣された。
帰国後は東京師範学校長、体操伝習所主幹、音楽取調掛長(のち東京音楽学校長)、文部省編輯局長、東京盲唖学校長を歴任。1890年(明治23年)に国家教育社を組織して国家主義教育の実施を唱導し、翌年に文部省を非職となってからは更にこの運動に力を注いだ。日清戦争後には台湾総督府民政局学務部長となり、植民地教育の先頭に立っている。晩年は貴族院議員や高等教育会議議員を務めたほか、楽石社を設立して吃音矯正事業に尽くした。
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