ユリウスさんのブログ
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アレキサンダー大王とシーザーが泣いた?話
Fiona Beddallの "Alexander the Great"に、彼が世界には星の数ほどたくさんの国々があると知った時に泣いたと書いてあった。その涙の訳は「俺はまだその一つすら征服していないんだ」ということだった。
アレキサンダー大王は紀元前336年、20歳でマケドニアの王となった。そしてまたたく間に世界がかつて見たこともない大帝国の支配者となった。彼の帝国はギリシャから東はインドにまで及んだという。
しかし、彼は大帝国を作りはしたが治める楽しみを味わうことなく、多くの仕事を残して30歳でこの世を去った。
三世紀後、ローマにいたジュリアス・シーザーは、アレキサンダー大王の偉業を知って涙した。何故なら、大王は帝国を支配していたのに、32歳になっていたシーザーはまだ何の業績も上げていなかったのだから。
「講釈師見てきたような嘘をいい」という川柳が揶揄するとおり、歴史家は本当に彼らの涙を見たわけではないだろう。でも読者は征服欲の強いアレキサンダー大王なら、「ようし 、今に俺はでっかいことやるぞ!」叫んだだろうと思うし、シーザーは世に出るのが遅かったから、本当に悔しい思いをしただろうと想像する。だから「泣いた」は嘘も方便として許されるものらしい。
閑話休題。これだけの話ではここの読者は満足してくれない。もうちょっと踏み込んで書きます。
マケドニアのアレキサンダー大王は帝国をどんどん拡張したので、あらゆる文化が融合し、アフロディテ像やアテナ、ニケなどの女神像がギリシャからオリエント地方にまでまたがって盛んに造られた。作られた時期や場所はまちまちであるけれど、そのために興味深い二つの違いがあるのを読者はご存知? 翔年は知りませんでした、と言うか、完全に忘れていたことを知りました。
一つは時代による女性の衣の変遷です。それは時代の経過とともに、女神や女性像の衣がずり落ちるのです。(笑)
前六世紀 : いずれも全身に衣をまとっている。
前五世紀後半 : 片肌を脱いでいる。当時は自由の空気があったようで、この片方の乳房露出は一世を風靡したらしい。
前二世紀中頃以降 : ついにアフロディテが全裸になりました。
もろ肌脱いだアフロディテ(前二世紀中頃)とサンダルを脱ぐアフロディテ(前100年頃)
古典期の女神の注文は神殿からだった。それが前二世紀頃には当時の享楽的な風潮も手伝って、領主や金持ちから裸身像の注文がドンドンくるようになったらしい。もう脱ぐものがなくなったアフロディテがサンダルを脱いでいる像はもう神殿には飾れませんね。
もう一つはもうちょっと隠微な考察です。先ほどは時代とともに、全身着衣→片肌脱ぎ→もろ肌脱ぎ→全裸という変遷を見ました。次も女性像であることは変わらないのですが、今度の問題は地域によってはっきり差異のある下半身の表現形式です。そういう話でも別に気にならないという方は、もう少し奥の部屋へとお進み下さい。
それはヘアの有り、無しです。ギリシャの全裸女神像は陰毛が表現されていないのに対し、オリエントでは濃い陰毛を有する姿で表現されているのです。
ギリシャ人の方がエロチックなんだろうと早合点してはなりません。また好みの問題でもありません。ようく落ち着いてお聞き願います。古代ギリシャでは女性の陰毛を剃る習慣があったということが関係しているらしい。嘘と思うお方はアテネ考古博物館、ルーブル美術館、大英博物館をめぐって、それようの剃刀が陳列されているのをお確かめ下さい。
一方オリエントの方はどうだったか。古代の女神は地母神、大地の生産力と女性の出産力とを結びつけて崇めるという農耕社会でした。地母神像は生命の創造者、豊穣のシンボルとして、豊満な乳房、発達した骨盤、濃い陰毛を有する姿であらねばならなかったのでした。
ここは画像がなくても、ガッテンしていただいけたでしょうか? (ガッテン)、(ガッテン)、(ガッテン)
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