堅実さんのブログ

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終戦から75年 2年8月6日(木) 21時13分

 暑いですね。前橋では、35度になりました。この暑さと、コロナ。何とか乗り切りましょう。


敗戦から、75年です。私の幼い頃は、未だ、戦争の名残があり、防空壕は、各、家々にありました。その防空壕の中で、遊んだものでした。大人が、その中で遊んで、いると、上の土が崩れるから、危ないと言われたものでした。


 家の白壁は、炭でこすり、黒くしてありました。空襲で目立たなくしたものです。小学校の窓ガラスは、紙を、十文字に貼り、ガラスが割れた時に、飛び散らないようにしたものです。


前橋市の中心街は、空襲で、焼け野原になったのですが、私の記憶では、戦争の傷跡は、見当たりませんでした。


国道17号の交差点では、おまわりさんが、台の上で、交通整理をしておりました。この頃は、信号機がありませんでした。


 木炭車と、言っても、知らない人が殆どですが。ガソリンがないので、バスの後ろに、「かま」と言っておりましたが、木を燃やし、ボイラーの熱で、タイヤを回転させ、これを動力として、走らせるバスです。蒸気機関車の、バス版と考えてよいです。


木炭が少なくなると、バスは、動かなくなり、運転手が、後ろで、木を燃やし、動かしたものです。


 バスが、動く時は、数人のお客がバスの後ろから、バスを前に押し、少し動くと、お客は、バスに乗り込みました。バスの速度は10キロくらいです。


 道路はほとんど、舗装してなくて、簡易舗装で、ローラーで道路を平らにして、その上にアスファルト(石炭を火力発電でしようした、残りのもの)を、ローラーで平にしたものです。ですから、3か月もすると、あちこち、穴だらけになります。その部分を少しずつ、補修するのです。


 この頃は、押し売りとか、物貰い(何か、食べ物はないかと、言って食べ物を、分けてもらう乞食)が、3日に、一度は来ました。ゴム紐をかってくれといい、市価の数倍で売る、やくざ商売です。


 シコルスキーヘリコプター(小型の2人乗り)が時速30キロくらいで、ゆっくり飛んでおりました。それを、私は、見えなくなるまで、5分くらい、じっと見ておりました。


他の子供とは、少し、変わっていたようです。ヘリコプターが、見えなくなると、あの向こうには、何があるのかと、考えたものです。それから、数十年後になって、今は、その頃思った、あの向こうに住んでおります。

何の事は、無い。日本中、どこに、行っても、同じ風景があることが、この齢になって、わかりました。


 今日は、広島原爆投下の日です。戦争は、やらない事が、一番よいのです。気がかりは、中国の、領土拡張主義の、傲慢さです。


 



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2件のコメントがあります
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    堅実さん
    2020/8/7 15:11

    小督  さんへ


    小学生の頃から、家族や、先生から、原爆の怖さを、聞かされて、きました。


    一度に、数万人が、死ぬ。

    日本に、原爆が3個落ちたら、日本は全滅するという、小学生もおりました。



    「数年前だったと思うのですが、世代が変わり、
    原爆で傷を負った人たちの人形が「怖い」と
    物議を醸したことがありました 」

    火傷の、後は、美しいものでは、ありません。
    しかし、これが、原爆の怖さです。
    映画、「長崎の鐘」で、その後の、苦悩が、分かります。

    「美しいものや綺麗なものだけを見て生きて行ければいいのですが、
    負の部分も目を背けてはいけないと思うのです 」

    世の中は、醜いものが、多いです。
    しかし、これも、現実です。
    そこから、どう行動するかが、平和や戦争につながるのです。

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    小督さん
    2020/8/7 07:56
    おはようございます 

    堅実さんも8月生まれでしたね。
    私も誕生月が8月のせいか、
    6日9日15日はしっかり心に刻まれています 

    数年前だったと思うのですが、世代が変わり、
    原爆で傷を負った人たちの人形が「怖い」と
    物議を醸したことがありました 

    美しいものや綺麗なものだけを見て生きて行ければいいのですが、
    負の部分も目を背けてはいけないと思うのです