月影 隼人さんのブログ
朴春琴
朝鮮人の政治家。戦前日本の帝国議会で初の朝鮮人代議士となった。
1906年に訪日
1932年には当時の東京府4区(本所区・深川区)から民族名のまま第18回衆議院議員総選挙(2月21日投票)に出馬し、丸山らの応援を得て当選、40歳であった。
日本での生活が25年におよんだ朴の立場は皇室中心主義であった
親分肌で面倒見が良い性分であったことから、地元では朝鮮人だけでなく日本人からも人気が高かったという。政治家としては、朝鮮人・在朝日本人の参政権と朝鮮人志願兵制度を請願している
戦前の在日には参政権があった
朝鮮の歴史で意外と知られていないのが、戦前の内地(日本本国内)に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があったことです。
1920年の衆議院選挙では、所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使しています。そして1925年には普通選挙法が成立し、納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになりました。
戦前の選挙法では、立候補は戸籍名で行なうことになっていました。従って1940年の創氏改名令以前は、当然本名=民族名での立候補です。
創氏改名令後に行なわれた1942年4月の衆議院選挙(旧憲法下で最後の選挙となります)でも朴春琴、李英介、李慶圭、李善洪、辛泰獄、任龍吉の6名が民族名のままで立候補しています。
ハングル投票が認められていた
さらに選挙では有権者はハングルで投票することが認められていました。1930(昭和5)年1月31日に内務省法令審議会はハングルの投票を有効としたのです。ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には、諺文字(ハングルのこと)書が配布されました。植民地の文字が宗主国の選挙で使用を認められたのは、世界植民地史上おそらく唯一ではないかと思います。
参政権では差別がなかった
朝鮮や台湾という植民地(当時は外地と呼ばれていました)に居住する者は、日本人でも参政権はありませんでした。日本人も朝鮮・台湾人も内地に住む者だけに参政権があったということです。つまり参政権において内外地の差別はありましたが、日本人と植民地人との間には同じ大日本帝国臣民として差別はなかったということです。これはまた、帝国臣民として運命と歴史を共にしていた時代であったと言うことができます。
当選した議員は「親日派」と指弾
国会議員を務めた朴春琴は当然のことながら同じ臣民として率先して活動しました。そのために1945年の解放後「親日派民族反逆者」に指名され、厳しい指弾を浴びました。地方議員だった朝鮮人も、同じく「親日派」のレッテルが貼られています。民族名での活動は何ら評価されませんでした。
参政権剥奪論は誤り
第二次大戦の結果が日本の敗戦となった結果、朝鮮・台湾は日本の植民地支配から解放されたため、その出身者は日本人と違う処遇を受けることとなります。それまで有していた参政権は喪失しました。これを「参政権の剥奪」と主張する方がおられますが、参政権は帝国臣民ゆえに有していた権利です。喪失は解放によって臣民でなくなった結果ですから、「剥奪」という評価は誤りと考えます。
参政権の喪失は民族の解放という積極的な意味があるのであり、剥奪論は解放を否定するものです。
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タグ:
888ちこさん
私も初めて知りました
ちこさんの記事を見なければ調べる事も知る事も無かったと思います
特に内地に住む人には参政権が与えられていた事にはビックリしました
こんばんは。
初めて知った情報です。
韓国の主張はまったくの出鱈目ではありませんか!
併合していたからの参政権です。
植民地で朝鮮人が参政権を持っていたらそれこそ大日本帝国は神様ですよ。
非難されるいわれはありません。