ユリウスさんのブログ
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「皇太子、雅子妃両殿下への手紙」を読んで
文芸春秋8月号で「皇太子、雅子妃両殿下への手紙」というタイトルで保坂正康(ノンフィクション作家)、友納尚子(ジャーナリスト)、斉藤環(精神科医)、茂木健一郎(脳科学者)、猪瀬直樹(作家)、福田和也(文芸評論家)の六氏が両殿下宛に書いた文章が載っている。
手紙と言う形式とはいえ、公開で皇太子ご一家に「孤立無援の両殿下は今、何をなすべきか--」を申しあげるものだから、あらゆる方面への目配りがなされており、翔年が見るところ、各氏とも、筆が鈍ったり、それたりしているように感じた。
勿論、教えられるところは多々あったが、特に斉藤環氏の説には共感できるところが多かった。
東宮職医師団の主治医、大野裕先生の診断では、雅子妃の病名は「適応障害」ということであり、そのために「認知行動療法」が行われているといういうことである。適応障害とは患者がその環境に合わないということだから、通常ならば病気の原因である環境を変える努力を周囲がしてあげるのだけれど、雅子妃の場合、皇室の仕組みや制度は変えないで、そういう古色蒼然たる環境はそのままにして、そういう環境に対する雅子さんのものの見方とか認知のゆがみ(あるとは思わないが)を調整していくことを「認知行動療法」は目指しているのだという。
環境に適応できない患者と認定された雅子妃にとって、これは茨の道であろうと拝察する。懸命に治療に当たっておられる医師団には申し訳ないが、一国民として黙過できない残酷な治療のように思える。失礼を承知で言わせて貰うなら、洗脳教育とどう違うのか分かりやすく教えていただきたいと思う。
近代教育を受けて確固たる人格が形成されて後に、あまりにも価値観の違う環境にただ一人置かれて、批判の矢を浴び続けている妃に、救いの手を伸べる勇気ある人は一人もいないのだろうか?
改めて、身体も心も健やかで知性溢れる溌剌とした素晴らしい女性が心の病に侵されるに至った経緯を簡単にたどったあとで、翔年の考えを述べることとしたい。
1 ハーバード大学から東京大学、外務省へ入省
→ 学校教育から、ご成婚までの経歴は文句のない超エリートコースを歩まれている。
2 平成5年 ご成婚
→ このころはお元気で皇室外交を目指すというようなご発言もあった。でもこれは現皇室では憲法によって禁じられていること。このころを境にメディアから姿が消えたように思うがどうでしょうか? このことが孤立化の大きな因ではないのか?
3 平成11年 ベルギー皇太子の結婚式に出席、この年の暮れに流産
→ 苦悩深まる。陽に陰に、お世継ぎ問題が渦巻いていたらしい。
4 平成12年 香淳皇后の葬儀に雅子妃が欠席
→ 批判高まる。夏バテのような状態?との説明があった。
5 平成13年 愛子さまを出産
→ これで苦悩から開放されるかと思いきや、またしても難題、男の子を生むべしの圧力がかかった。近代教育を受けて男も女も平等と早くから教えられている者にとって、男でなければダメという尺度は心理的に受け入れられるものではない。
6 平成15年 帯状疱疹で入院、そのままご静養
→ 友納尚子氏の説によると「皇室は身体の病気ならば現代医学の最先端の治療が受けられるのに、(皇太子が)必死に訴えても妻に専門家の医師をつけることすらできない」状況に置かれていたらしい。これは宮内庁職員悪者説に傾きやすい説だが、翔年はもっと根深いものがあるはずと推察しなければいけないと思う。
7 平成16年 皇太子の「人格否定発言」が飛び出す。
→ これにはびっくりした。世間と宮内庁内にこの発言は波紋をよんだが、これを機に雅子妃の病名が始めて明らかにされたのは事実だ。
どうやら、東宮一家への世間の批判も厳しいが、宮内庁のなかでも孤立化が進んで四面楚歌の状態にあるようにこのとき感じましたね。
その上に、翔年は想像する。天皇家は国家の儀礼と伝統の祭祀を担うのが役割らしい。もし、自分ならとどうなるかと皆さんも想像して欲しい。翔年は信じてもいない神に毎日祈る生活はやりきれないと同情する。儀礼やお祈りのような形の決まった儀式ばかりの生活では何を「生きがい」と感じることができるのだろうか。さらに、たまに国民の前に出た時、笑顔を強要されては、これも辛いことではないだろうか?
翔年は思う。雅子妃は生きがいの感じられる環境に変わられるべきだと。
(参考)日本の皇室と英国の王室は違うことを承知の上で、英国にはこんな先例もあることを書いておきたい。
エドワード八世(国王)「私はシンプソン夫人(アメリカの実業家夫人)と結婚したいと考えている。しかし、彼女を皇后にできないことを承知している。そこで、国王の単なる配偶者とする法律ができないものだろうか。過去にもそういう例があるそうではないか」当時の英首相「しかし、議会の承認を得ることは困難です」
それから2ヶ月後、1936年12月10日、イギリス議会の議長が勅語を読んだ。
「私はここに最終的な固い決意を宣告する。イギリス国王の王位を退くことを決心した。私は、公共の利益を先にすべき国王たる者の義務を軽視するものではない。しかし、私はこの重責を果すことができないことを 認識するにいたった」
翌11日夜、退位してウィンザー公となったエドワード八世はラジオで
「私は、愛する婦人の援助なくしては、国王としての重責と任務を果すことができなくなったのだ。今や公務の一切から離れ、重荷をおろした」と全国民に挨拶された。
(退位後、ウィンザー公はウォリス・シンプソンとめでたく結婚)
退位した国王が、国民に向かってラジオで自分の考えを述べる。なんだか人間らしくていいですね。これでは悪い噂の立てようがない。そう思いませんか?
手紙と言う形式とはいえ、公開で皇太子ご一家に「孤立無援の両殿下は今、何をなすべきか--」を申しあげるものだから、あらゆる方面への目配りがなされており、翔年が見るところ、各氏とも、筆が鈍ったり、それたりしているように感じた。
勿論、教えられるところは多々あったが、特に斉藤環氏の説には共感できるところが多かった。
東宮職医師団の主治医、大野裕先生の診断では、雅子妃の病名は「適応障害」ということであり、そのために「認知行動療法」が行われているといういうことである。適応障害とは患者がその環境に合わないということだから、通常ならば病気の原因である環境を変える努力を周囲がしてあげるのだけれど、雅子妃の場合、皇室の仕組みや制度は変えないで、そういう古色蒼然たる環境はそのままにして、そういう環境に対する雅子さんのものの見方とか認知のゆがみ(あるとは思わないが)を調整していくことを「認知行動療法」は目指しているのだという。
環境に適応できない患者と認定された雅子妃にとって、これは茨の道であろうと拝察する。懸命に治療に当たっておられる医師団には申し訳ないが、一国民として黙過できない残酷な治療のように思える。失礼を承知で言わせて貰うなら、洗脳教育とどう違うのか分かりやすく教えていただきたいと思う。
近代教育を受けて確固たる人格が形成されて後に、あまりにも価値観の違う環境にただ一人置かれて、批判の矢を浴び続けている妃に、救いの手を伸べる勇気ある人は一人もいないのだろうか?
改めて、身体も心も健やかで知性溢れる溌剌とした素晴らしい女性が心の病に侵されるに至った経緯を簡単にたどったあとで、翔年の考えを述べることとしたい。
1 ハーバード大学から東京大学、外務省へ入省
→ 学校教育から、ご成婚までの経歴は文句のない超エリートコースを歩まれている。
2 平成5年 ご成婚
→ このころはお元気で皇室外交を目指すというようなご発言もあった。でもこれは現皇室では憲法によって禁じられていること。このころを境にメディアから姿が消えたように思うがどうでしょうか? このことが孤立化の大きな因ではないのか?
3 平成11年 ベルギー皇太子の結婚式に出席、この年の暮れに流産
→ 苦悩深まる。陽に陰に、お世継ぎ問題が渦巻いていたらしい。
4 平成12年 香淳皇后の葬儀に雅子妃が欠席
→ 批判高まる。夏バテのような状態?との説明があった。
5 平成13年 愛子さまを出産
→ これで苦悩から開放されるかと思いきや、またしても難題、男の子を生むべしの圧力がかかった。近代教育を受けて男も女も平等と早くから教えられている者にとって、男でなければダメという尺度は心理的に受け入れられるものではない。
6 平成15年 帯状疱疹で入院、そのままご静養
→ 友納尚子氏の説によると「皇室は身体の病気ならば現代医学の最先端の治療が受けられるのに、(皇太子が)必死に訴えても妻に専門家の医師をつけることすらできない」状況に置かれていたらしい。これは宮内庁職員悪者説に傾きやすい説だが、翔年はもっと根深いものがあるはずと推察しなければいけないと思う。
7 平成16年 皇太子の「人格否定発言」が飛び出す。
→ これにはびっくりした。世間と宮内庁内にこの発言は波紋をよんだが、これを機に雅子妃の病名が始めて明らかにされたのは事実だ。
どうやら、東宮一家への世間の批判も厳しいが、宮内庁のなかでも孤立化が進んで四面楚歌の状態にあるようにこのとき感じましたね。
その上に、翔年は想像する。天皇家は国家の儀礼と伝統の祭祀を担うのが役割らしい。もし、自分ならとどうなるかと皆さんも想像して欲しい。翔年は信じてもいない神に毎日祈る生活はやりきれないと同情する。儀礼やお祈りのような形の決まった儀式ばかりの生活では何を「生きがい」と感じることができるのだろうか。さらに、たまに国民の前に出た時、笑顔を強要されては、これも辛いことではないだろうか?
翔年は思う。雅子妃は生きがいの感じられる環境に変わられるべきだと。
(参考)日本の皇室と英国の王室は違うことを承知の上で、英国にはこんな先例もあることを書いておきたい。
エドワード八世(国王)「私はシンプソン夫人(アメリカの実業家夫人)と結婚したいと考えている。しかし、彼女を皇后にできないことを承知している。そこで、国王の単なる配偶者とする法律ができないものだろうか。過去にもそういう例があるそうではないか」当時の英首相「しかし、議会の承認を得ることは困難です」
それから2ヶ月後、1936年12月10日、イギリス議会の議長が勅語を読んだ。
「私はここに最終的な固い決意を宣告する。イギリス国王の王位を退くことを決心した。私は、公共の利益を先にすべき国王たる者の義務を軽視するものではない。しかし、私はこの重責を果すことができないことを 認識するにいたった」
翌11日夜、退位してウィンザー公となったエドワード八世はラジオで
「私は、愛する婦人の援助なくしては、国王としての重責と任務を果すことができなくなったのだ。今や公務の一切から離れ、重荷をおろした」と全国民に挨拶された。
(退位後、ウィンザー公はウォリス・シンプソンとめでたく結婚)
退位した国王が、国民に向かってラジオで自分の考えを述べる。なんだか人間らしくていいですね。これでは悪い噂の立てようがない。そう思いませんか?
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