人の買った週刊新潮を盗み読みしてみると、
結構オモロイ記事があった。
「俗欲がなかったら、小説なんか書けるか」
という言葉は、渡辺淳一氏によるエッセイでのものだった。
直木賞授賞式で、若い作家に述べたのだという。
会場の一同は、一瞬、みな絶句したそうだが。
直木賞というのは、作家としてのスタートラインにたっただけのことであり、
その後は激しい生存競争に晒されるのだから、
自分の欲望すら利用しなくてはならないという意味合いらしい。
しかし、言わんとしている意味は理解できるのだが、
「その後の激しい生存競争」は事実だとしても、異議がある。
そもそも、なんで作家は缶詰にならなくてはイカンのだろうか。
缶詰にされて、果たしてまともな作品が出来るのだろうか。
そして、売れないとなると、すぐにスポイルされてしまう。
毎年、毎年、200人も新人が出てきて、同じくらいの新人が翌年にはいなくなる。
空白の時間、熟成の時間というのは、ものづくりにあって、
とても大事な時間なのではないか。
その空白を一切許さないとしたら、こんな非効率な話はない。
かつてモノを書いていた人ほど、
その空白の時間を経ることによって、
パワーアップしているとは思わないのだろうか、出版社は。
スペイン酒場で出会った、元作家なカッパ先生とも話したのだが、
この「作家の使い捨て」には、外から見ていても閉口するのだ。
そして、たとえ作家と出版社の生活のためとはいえ、
缶詰から生まれた作品なんて、本当のことを言うと読者は読みたくないのだ。
村上春樹の頭のイイところは、決して缶詰にはならなかったことだ。
ここからみたって、「売れる作品は、けっして缶詰からは生まれない」
のがわかろうというものだ。
「俗欲がなかったら、小説なんか書けるか」は作家の言い分だとしても、
「俗欲があるんなら、作家を缶詰になんかするな」は、読者から出版社へ向けての言い分だ。
いつでもどこでも、出版社は作品の受け付け体制を整えておえけば、
イイだけのことだ。
元々実績のあった作家の場合には、その間口をぐっと広げておけば、
イイだけのことだ。
PS:他には、川上未映子のエッセイがオモロかった。