ユリウスさんのブログ
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エッセイ孝
不思議なことがおこるものだ。「新エッセイ岡部塾」を受講しはじめてから、本を読んでいたらエッセーという言葉にやたら反応するし、友達の面白い話を聞いているときにはエッセイのネタになりそうやなと思ったり、前に書いたBlogネタでエッセイになりそうなものがふぃっと脳裏に浮かんだりするようになった。
今読んでいるA・J・ジェイコブス著「驚異の百科事典男」の中に、にエッセイという言葉は1580年、フランス人のモンテーニュが作った言葉だと書いてあるのを見つけた。これは「試み」とか「試行錯誤」という意味があるという。
そうなるとエッセイの元祖モンテーニュの「随想録(エッセ)」を少しはひも解いてみたくなる。あいにく手元にないので、やはりエッセイストの木村治美さんの著書から孫引きさせてもらいます。
第八章 無為について
われわれも見るとおり、どんなに豊穣で肥沃な土地でも、遊ばせておくとそこにいろんな種類の無益な雑草が繁茂する。これを役に立つように働かせるには、秩序ただしく何かの種を播いてやらねばならない。また、女は一人でも形のない肉塊を生むことができるけれども、立派で自然な子供を生むには別の種を植えつけてもらわねばならない。精神についてもこれと同じことが言える。精神は何か自分を束縛するものに没頭させられないと、あっちこっちと、茫漠たる想像の野原にだらしなく迷ってしまう。
さすが、元祖だけあって、なにやら深遠な思索が述べてある。こんな哲学みたいな題材でエッセイの書き方を勉強するのでは大変だ。もう少し柔らか題材がいいのではないか。
再びジェイコブスの方に戻ると、こっちには下世話なことが書いてあってほっとする。モンテーニュが随想録を書いた時代の女性文学者にマリー・ド・グルネーがいた。彼女はモンテーニュの本を読んだ時、興奮のあまり卒倒したという話です。これは大変興味をそそる逸話だ。
ここからは翔年の想像だけど、本にしろ、何んにしろ、何かに興奮したり、びっくりした時、卒倒したり、失神したり、失禁したり、腰を抜かしたり、その他何でもいいが、とに角、こういうときの身体的反応は男より女の方が数倍強いように思えるのですが、じっさいどうなんでしょう。
大分前のことですが、つきあっていた男から佐々木幸綱の短歌を贈られて、寝込んでしまった日本女性がいたと聞いたことがあります。
今この歌だったのか
噴き出づる花の林に炎えて立つ一本の幹、お前を抱く
あるいはこっちだったのか
ゆく水の飛沫(シブキ)渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く
覚えていない。男歌と呼ばれるこの二つのうちのどっちかであったことだけは確かです。
心理的なものが、身体的なものに作用する力は女性の方が強いらしい。フランスのマリーの卒倒と寝込んでしまった日本女性のたった二例で結論が出せるというものではないけれど、男から見たらこの二例だけで十分なような気がしないでもない。
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