ユリウスさんのブログ

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映画「カティンの森」を観た


 先日、ちょっと時間の空白が生じた時、以前から見たいと思っていたアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」を観た。多くのことを考えさせてくれる素晴らしい映画だった。
 ポーランド現代史のある悲惨な事件を描いた映画ではあるが、政治や歴史の専門家でなくても見て考えることができるように、否応なく戦争に巻き込まれた妻や母の視点から事件が語られるので、誰でも理解できるいい作品だと思った。

 映画を語る前に「カティンの森」事件の事実を年表にして確認おきたい。あまりにも悲惨な根が深い事件であることを再認識するために、またこの映画を十分理解するために。

1939年9月(第二次世界大戦勃発)
  独ソによるポーランド分割占領。古都クラクフはドイツが占領。ソ連の捕虜となったポーランド兵は138箇所の監獄と強制収用所に抑留される。
→ 前年の11月にソ連はポーランドと不可侵条約の更新をしたばかりであった。

1940年4月
  ソ連内務人民委員部(NKVD、後のKGB)がポーランド将校一万数千人を虐殺。
  → このことは驚くべきことに長い年月隠されていた。

1941年6月~7月
  ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻。ソ連に抑留中のポーランド軍捕虜に大赦。→ 1939年8月、独ソ不可侵条約を締結しているにもかかわらず。
ヒトラーのドイツ、スターリンのソ連、どちらも独裁国家で、なんでもあり。

1941年8月
  ポーランド軍のアンデルス将軍が行方不明の一万数千人の将校に不審を抱きソ連に問い合わせるも説明がなかった。翌年、ソ連を去り米英軍に合流した。

1941年秋
  独ソ戦線が東に移動し、カティンはドイツに占領される。

1943年4月
  ドイツが虐殺された将校の遺体がカティンに埋められているのを発見。
  国際委員会による調査により、40年春にソ連が虐殺したと結論。記録映画撮影。

1943年6月
  独ソ戦線が西に移動し、ドイツは墓の調査を中断。遺体とともに発見された遺品は証拠物件である。証拠隠滅を狙うソ連と真相解明を志すポーランド抵抗組織の間で「遺品をめぐる闘争」が展開した。

1943年9月 
  カティンは9月25日にソ連により開放される。ソ連側調査委員会による調査が始まる。

1944年1月
  ソ連調査委の報告書発表。これによれば41年秋にドイツが虐殺した。彼らは43年の調査の際、一切の記録文書を取り除いて、再び死体を墓に戻したと結論付けている。ソ連も記録映画をを撮影している。
→ このでっち上げ映画のために、新に1000名の捕虜を殺害してフィルムに収めたという。独裁国の恐ろしさを痛感する。

1944年8-9月  ワルシャワ蜂起。

1945年1月18日 
  古都クラクフ、ソ連により開放される。それ以前にカティン犠牲者の遺品がソ連軍の手に渡らないよう、ドイツへ運ばれるが、最終的にドレスデン近郊で失われてしまう。謎。

1945年5月8日  ドイツ無条件降伏

1945年(第二次世界大戦終結)
  ポーランドはソ連の衛生国(ポーランド人民共和国)となり、カティンの「真実」追究がタブーになる。
→ ドイツとソ連の強国に挟まれたポーランドは真実を知ることは出来なかった。

1946年
  ニュールンベルク裁判でもカティン問題への責任追及はなされなかった。

1976年
  ロンドンにカティン記念碑が建てられ「1940」(即ち犯人はソ連)と記される。
→ 事件が発生してから40年近い歳月を経て、やっと真実の扉が開かれ始めた。

1981年
  「連帯」革命のさなか、ワルシャワにポーランド最初のカティン記念碑が建てられるが、その夜のうちに何者かがクレーンを用いて撤去。
→ 共産主義者のしわざに違いないと思う。

1983年
  ソ連がカティンの森に建てた記念碑には「カティンの地に眠る、ヒトラーのファシズムの犠牲者・ポーランド兵のために」と記される。
→ この年、ソ連はまだこういうことをやっている。独裁国家とはこういうものであろう。

1986年
  カトリック団体がカティンに木製の十字架を建てたが、虐殺の日付を刻むことは許されなかった。
→ ポーランド人にとって、本当の歴史をかたることはまだ許されなかった。

1990年
  ポーランドはソ連の衛生国でなく、ポーランド共和国となる。ゴルバチョフソ連大統領が自国の犯行と認めポーランドに謝罪。
→ 50年の歳月の後に、やっと歴史の真実が明らかになった。


1991年
  ピャチハトキとメドノエの発掘調査が行われる。

    
アンジェイ・ワイダ監督のメッセージの一節。
「長い年月が、カティンの悲劇からも、1943年のドイツによる発掘作業からも、われわれを隔てている。90年代におけるポーランド側の調査探求にも拘わらず、さらには部分的にとどまるとは言え、ソ連関係文書の公開が行われた後でさえも、カティン犯罪の実相について我々の知る所はあまりに少ない。(中略)
 映画は、カティン事件の数多い被害者家族の苦難と悲劇について物語ればよい。スターリンの墓上に勝ち誇る嘘、カティンはナチス・ドイツの犯罪であるとの嘘、半世紀にわたり、対ヒトラー戦争におけるソヴィエト連邦の同盟諸国、すなわち西側連合国に黙認を強いてきたその嘘について語ればよい。(以下略)」
→ ワイダ監督については年配の人なら名前を覚えておられるだろう。1957年「地下水道」や1959年「灰とダイヤモンド」などの名作がある。
1987年に京都賞を受賞、その受賞賞金を基金として、1994年、クラクフに日本美術技術センターを設立した。

著者(アンジェイ・フラチク)から日本読者へのメッセージ。
私はこれまで抱いてきた信念を物語りにしました。
「死者たちを正当に弔意しなければならない。過去との直面を避ける民族は敗北を宣告されている」という信念です。戦争の悲惨さを体験した日本人なら、これを理解してくれるでしょう。
→ わが国は国民自らの意志によって戦争責任を明らかにしていない。天皇制擁護論が責任追及をいまだに阻んでいる。


二大強国に挟まれたポーランド(拡大してご覧下さい)


 映画については翔年がこれ以上付け加えるべきことはない。ドイツとソ連という二つの強力な独裁国家に挟まれたポーランドが蒙った受難。それは米国と中国に挟まれて困難な歩みを強いられる今後の日本を暗示しているかも知れない。
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