ユリウスさんのブログ

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たまとユリウスの対話(その3) -シーボルト-

 それはたまさんの大事業「人生のセームスケール」のシーボルトの項目に追加したいことをBBSに書き込んだことから始まった。最初はまじめだったが、またまた、たまさんの誘導尋問にみごとに引っかかってしまった。(笑)


ユリウス:
たまさん、シーボルトの「鳴滝塾」その他若干のことをお供えします。
シーボルトの家系はドイツ医学会の名門であり、祖父、父、伯父はいずれもビュルツブルク大学の医学教授であった。シーボルト自身も大学で医学を学び1820年に卒業している。けれども彼の興味を持つ学問分野は動植物、地質、鉱物を研究する博物学から、人文地理や民俗学にまで拡がっていた。

 鎖国時代の当時の日本は、医師だけが薬草を採取するという名目で出島の外にでることを許され、日本人では担当の役人と長崎丸山の遊女だけが出島に入ることを許されていた。シーボルトはまずこのような禁令を積極的に破る試みを行っている。
 そして、日本人通詞(通訳)の名義で約2町歩の土地と家屋を手に入れ、ここに診療所と蘭学、医学を教授するための塾を作ることに成功した。後に「鳴滝塾」をよばれる塾である。ここに九州各地から取り寄せた草木を植え、ちいさな植物園も作った。

 はぼ1週間に一回、鳴滝塾に出かけ、その間に彼に学ぶ蘭法医が集めておいた重い患者を診断・治療し、必要な場合は奉行所へ届けた後で手術をした。外科・眼科・産婦人科の治療に特にすぐれており、彼の名声は上っていった。

 学問のやり方は、四書五経の素読という従来の日本の教育方法と、シーボルトの教授法はまったく異なるものだった。彼は弟子たちに具体的な研究テーマを与え、それについての論文をオランダ語で書かせ、それを審査して立派な論文にはドクトルの免状を与えた。 具体的なテーマとは、「日本における主な薬品表」、「日本における病気の名前表」、「日本における諸国物産表」、「鳥や魚などの動物の捕らえ方」、「漆の製法」というようなものであったから、彼は居ながらにして日本についての多くのことを学んだ。(拍手)
もりいずみ「フィリップ・フォン・シーボルトを参考にしました。
..2010/ 6/ 6 11:27:39(日) [7718]

たま:
ユリウスさん
「シーボルトの「鳴滝塾」その他若干のこと」、だんだん。
彼のバイボにお供えしました。

こちら 

---シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)との間に生まれた娘(楠本いね)はのち女医となっている。 ---やるぜ、Sheボルト!
..2010/ 6/ 6 12:57:54(日) [7719]


ユリウス:
たまさん
そのsheボルトのことなんですが、男も惚れ惚れするほど、器がでっかい!

その1
鳴滝塾の塾生は現在分っているだけでも57人に達している。名前が分らないのは、記録を残すと弟子達に迷惑がおよぶ可能性をシーボルトが配慮したためである。

その2
堅物の長崎奉行所も、やがて彼を信頼するようになり、植物採集の名目で彼が長崎周辺を歩くことを許した。こういう日には、沿道の住民は重い患者を道の脇へ連れ出して彼の診断を求めた。シーボルトはいやがるようすもみせず、通訳を通して診断し、養生法を教えた。

その3
丸山の遊女其扇を愛し、落籍して元の名の楠本お滝にもどしている。そして長崎で発見したアジサイの名にお滝さんにちなんで「オタクサ」と命名している。(このことは僕のBlog2004年6月7日「紫陽花づくし」に書いてます)
※Hydrangea macrophylla Seringe form.Otaksa Wilsonon

その4
シーボルトはオタクサ母子をこよなく愛し、彼が肌身離さず持っていた漆塗りの香合(香料を入れる小箱)の表にはお滝、裏にはいねの像が螺鈿で象嵌されていた。

その5
シーボルト事件によって日本を去る時、彼は母子を弟子の二宮敬作と高良斎に託した。二人は師の信頼によく応えた。二宮敬作はいねの教育に力をつくし、彼女が産科医として日本で最初の女医となるのを助けた。

その6
30年後、彼は再び訪日し、いねの成人した姿を見、弟子の親切に涙を流したという。
..2010/ 6/ 6 15:22:37(日) [7720]

たま:
ユリウスさん
sheボルトのリスペクト、だんだん。彼のバイボにお供えしました。こちら

---昨日、毎日毎日行く銭湯「鶴の湯」の脱衣場で黒人青年に出会った。その器の大きさに参りました。男も惚れ惚れするほど、器がでっかい!思わず敗北宣言。Wカップ南アフリカ大会、日本は大丈夫か?
..2010/ 6/ 7 05:45:16(月) [7722]


ユリウス:
たまさん
こんな江戸川柳もあるよ。

太さが当百で巾着開(ボボ)きしみ  江戸川柳

※歴史が伝えるところによると、江戸の末期に天保銭と言われた小判型の当百銭(百文に通用)が新鋳された。これは小判と同じぐらいに大きくて、持ち運びに不便(笑)で、なおかつ巾着袋(サイフ)に入れるのにも、袋の口を大きく開かないと入らなかったという。

サッカーはよく知りませんが、ねじ込まれないようにゴールをシッカリ守ることが肝要でしょうね。
..2010/ 6/ 7 10:42:54(月) [7726]

(蛇足)
このへんでお終いにしたいが、たまさんのことだから、しつこく突っ込んでくるかもしれない。明日のBBSが恐い。(笑)
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