サイコさんのブログ

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  士業(弁護士、会計士等)  現在 15位先週末の日経平均は、8,626.97円と前日比-9.36円で引け。サイコの僥倖は、クレディ世尊のストップ高2連騰でしょぅか。まぁ、やれやれで大利取ったはいいけど、含み損たっぷりのプレスもばっさり損切ったので、相殺しただけなのね さぁ、NYはちょっと下げてたみたいだけど、週初はどんな動きか、ここ2日は決算の権利落ちも絡んでか様子見という感じで小動きでしたが。まぁ、年度末31日までは、売買目的有価証券の評価を粉飾、もとい取り敢えず現状くらいには維持したい思惑は、企業本体も当然ながら、証券会社もそうだし、政府としても会計上だけでまたぞろナンチャラ再生法寸前の企業を増やしたくもないだろうし、税収も少しは増やさないかんので年金資金の運用枠を使い切っちゃうだろうから、30日下げれば買い、31日は上がるから(下げたとしても)売り、というスタンスですかね。まぁ、クレディ世尊がどうなるか楽しみで、またストップ高付けるようならヘッジ売りかけ始めてもと思ってるけど、取り敢えず基本スタンスに乗ってという感じでしょうか。さて、今日も最近読んでる本を紹介しよう。と大東亜戦争の敗戦後の10年間は、戦時下から続く闇市に象徴されるアナーキーな社会であった。それでもなんとか経済的には回復して、1956年の経済白書で、55年時のGNPが戦前水準に回復したのを受けてもはや「戦後」ではないと書き記された。この55年を目安として「第一の戦後」と「第二の戦後」とに分けて検証に入っていく。政治体制もほぼ固まり、治安も安定するに至り、高度経済成長の時代へと入っていく、所謂55年体制を分岐点として「第一の戦後」と「第二の戦後」とに分けている。小熊英二がこうした戦後の分類をするのは、第一、第二のそれぞれの戦後において、「国家」「民族」「市民」などの言葉は異なる響きを持って語られていたからだ。この書において、戦後ナショナリズムに深く関わった知識人、文化人を揚げてそれぞれ章立てした中で省察されていく。第二章では、丸山眞男と当にこのウィッキのリンクで解説される大塚久雄との戦後民主主義を代表する二大学者の戦中におけるぎりぎりの抵抗と、入隊体験を経た戦後における変節を「第一の戦後」にそって考察している。そしてその当時に、丸山も大塚もともに「近代を超克できなかった」日本に真の近代化を願ったのである。しかしここで提出される近代的個人はどうしてもヨーロッパ的なヘーゲルを下敷きにせざるを得なかったように思う。ただ丸山は「第二の戦後」期における福澤諭吉に関する研究、書として代表的な「文明論之概略」を読むからも分かるように、ちょうど前回のブログで書いたことの補足であるが、徳は受動的、受身的なものとして、これについて明治初期までの日本人の大半は上からの抑圧を非主体的に受けているのみで(前近代)、知は能動的、主体的なものとしてこれからこれを大衆に根付かせねば文明(近代)に辿り付けないとしている。近代的個人として、主体的、能動的に知を活用して社会を運営していくこと、そこに責任を自己のうちに主体的に担うことを、近代の「超克」と意味づけたのだった。南原繁は丸山眞男の師匠である。南原は、1946/2/11敗戦後初の紀元節(今の建国記念の日)において、東京大学の総長として「新日本文化の創造」と題する講演で、戦争の敗因として近代的な主体性の確立がなかったことを揚げている。「真の自由」、これぞリベラルというものだが、ヘーゲルが国家に、マルクスが共産主義に、そして南原の専攻であるフィヒテは「民族」に「真の自由」を存在させんとした。この「民族」は「独立の人間」によって構成される。プロシアがナポレオン戦争に敗れたあと、フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」という講演を行い、個人の自由と民族への愛を呼びかけ、そうした形態の愛国心を惹起する「国民教育」を提唱した経緯があった。南原が敗戦後に「新日本文化の創造」という講演をなすのもこれに倣ったわけで、最も主張するのが、この「真の自由」がための「一個独立の人間」、「利己的享楽の功利主義」とは対極にある概念である。現在の日本国憲法がGHQ(アメリカ)から押し付けられたものであることもさることながら、当時より第9条については議論が多かった。面白いと言っては語弊があるのだが、当時、この部分に反対していたのは上述の南原の他は、「真の愛国の党」たる共産党であった。その反対理由には温度差はあるが、概ね南原においては、現在でも言われている国際協力としての国連軍への派兵を、当初より念頭におき「すべての武力の放棄」ではなく「侵略戦争」を意図する武力の放棄を明記すべき理由であった。ここに先見性というか、真に先を見据えた考えに基づく、真の愛国者として新しい憲法の作成に積極的に参画する意思を感ずる。保守政党は、GHQからの憲法草案を安易に丸呑みすることで、天皇の責任問題を反故できるとし、自らの責任問題への拡散を回避するがための保身を図ったのである。しかしながら結局、現代においては、自衛隊という偽装軍隊は存在するわけであるし、自衛隊の国際協力のための派兵についても、この憲法9条への抵触から、苦し紛れのような立法で場当たり的にやりすごす姿勢は、それこそ平和ボケ憲法がためではなく、昭和初期から、それこそ戦前から醸成されてきた日本人の「無責任体質」の温存であったと言えるのではないだろうか。真に日本国を愛するがために、この9条に異論した南原は、流石に東大総長その人であった。この時の首相は、吉田茂である。グゥーーー    あ、北の人工衛星は株価に影響あるかな?
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