サイコさんのブログ
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問答無用
士業(弁護士、会計士等) 現在 7位今日の日経平均は、7,873.98円、-120.07円で引ける。ほとんどの銘柄が下げているにも関わらず、○イはちょい高。思わず売ってしまったら、あれれ担がれたかー とひやひやしてたけど、前日終値まで下げてきたので、やれやれで逃げ。○K39を現物買いしているのを利食かどうしようか迷ってたけど、これも下げてきたのでそのまま様子見。なんかパッとしない相場だけど、仕方ないか、不景気なんだから。今更指標云々いっても悪いに決まってるんだから、希望を見つけるしかないと思うんだけどね。みんなシビアだわ。ということで、景気が悪くなると「ファッショ」が台頭するみたいな誤解があるのか、ナショナリズムは右だけだと思ってるリベラルな人にもちょっと読んでもらいたい本を紹介しよう。思想地図(vol.1)以前にもここでチャイナラというタイトルで少し紹介しているのであるが、そのときはアジアの国々の現状に触れただけなのだが、丸山真男 -ある時代の肖像を読んだときにちょっとしたヒントを得たのでまずそれを書きたい。本文中で引用されていたと思うのだが、著名、ページ、引用文そのものも覚束なくて申し訳ないばかりなのだが、「上からの民主政治(社会主義)と、大衆としてではなくて(治者意識として)下からの(多元的)民主政治」というような趣旨の論考に対する疑問を展開している箇所がある。この民主政治という言葉は戦後民主主義でも社会民主主義でも置き換えが可能である。そこでこの思想地図の創刊記念シンポジウム(議題は「国家・暴力・ナショナリズム」)を再度振り返ってみたい。萱野稔人が思想地図シンポで言っている、ナショナリズムを、国家側が権力(暴力)を行使する場合の「上からのナショナリズム」と下層労働層が外国人労働者と競わされるときに抱く「下からのナショナリズム」という発想も成り立つわけである。それ以前に萱野が丸山的発想を踏襲していたのか、はたまた単にパックったのかは定かではないとしても、丸山的であると思った。もう一人、ここのシンポで「方法としてのナショナリズム」を唱える中島岳志。この人を研究者に駆り立てた竹内好の影響は当然にあるとして、その竹内と交友関係にあった丸山眞男をなんとなく彷彿とさせるのは反射的な間接的摂取を本人も知らず知らずに行っているからなのではないか。丸山を知らないはずの中島准教授なのだが、小林よしのりとの論争において、駆け出しの学者業で躓く事無く「やせがまん」で乗り切る根性は、まさに丸山的に思うのだが。そしてメインパネラーの東浩紀は「国民なきナショナリズム」(白井聡)を支持するのだが、よくよくポストモダン的な発想からすれば、アントナン・アルトーを下敷きとするドゥルーズ&ガタリの「器官なき身体」というキーワードそのものだ。ということでこの創刊記念シンポが難しそうな様相を呈していたのは、あまりにも有名な考察のパスティーシュとしてをいかにカモフラージュするか、ということだったのではないだろうかとこのごろ思うのである。しかし、こんなところで安易に「ナショナリズム」が語られてしまっていいのかとも思うのだが、右傾化というキーワードのみで、「愛国」問答みたいな本も出てしまうわけで、香山リカがぷちナショナリズムを批判するのはいいけれど、それこそサッカー日本代表に屈託無く国民愛を注ぐフーリガンの応援行動は、丸山が言うところの日本の土着的な風俗から出現している祭り(例えば岸和田のだんじり)などから湧き出てくるナショナリズムの萌芽と同一の視線だと思うのであるが。だとしたならば、そんな矮小化に向くようなところまで「ナショナリズム」などと囃し立てることは「よしにして」おくことにして、現実問題において左右関係なくプレカリアートを考え、「上からのナショナリズム」をも含めてグローバリズムの行き過ぎの中で「国(民)なきナショナリズム」を考察するのが、リアリストとしての今のような気がする。要は、香山は精神科医としてだけでよくて、わざわざ「ナショナリズム」を関連付けて、しかも本まで出す必要は無くて、しかもちゃんとした論理を持っているのならばまだしも、医学的見地を離れて孤立した「対ファッショ不安」には読むものがない、と言いたいだけなのだが。まぁ、それはそれとして年末にルサンチマンでボロクソ書かせてもらった浅羽通明のナショナリズムも読もうと思っているので、そのときに続きを騙りたいと思う。グゥーーーー
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