堅実さんのブログ
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小さい頃の思い出1(6.7.8)10時9分
(5707東邦亜鉛、さえないです。中国の景気がどうなるか。
7004日立造船も、さえないです。子会社で不正とか。
4980デクセリアルスは、今日は、頑張ってます。業績は好調。
オーソドックスですが、やっぱり、優良株かな。)
これも、小さい頃の話だ。よく「押し売り」が来た。ゴム紐をかってくれというのである。この前刑務所を出所して仕事がないから、買ってくれというのである。値段は小さかったから分からないが、50センチ、1メートルで、おそらく、市場の10倍くらいだったろう。
押し売りの口上を聞いていると、可愛そうになって、「お婆さん」少し、買ってやったらと言った。その時は、押し売りの言葉を、真実だと、思ったから。
それと、この頃は、戦後の混乱期でもあり、物貰いが、よく来た。「何にも食べてないから、何か食べさせてくれ。」お婆さんが、握り飯を一つ、差し出すと、喜んで帰っていった。どこへ行ったかは、知らない。
こんな時代であったので、インチキな化粧品売りも来た。「学生アルバイトです。」という。学生服を来ているが、齢は40歳くらい。白い化粧品で、量り売りである。手で持つ天秤に、白い色の化粧品を、空いた化粧品容器に詰めて、売るのである。これも、相当高かったと思う。
まあ、貧しかった。道にドロップが落ちていた。それに、蟻の群れが群がっていた。その蟻を手で、払い、ドロップをなめた、記憶がある。そんな時代だった。
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>まあ、貧しかった。道にドロップが落ちていた。それに、蟻の群れが群がっていた。その蟻を手で、払い、ドロップをなめた、記憶がある。そんな時代だった。
幾ら戦後間もなくでも、前橋総社町の大地主の息子さんがですか!?
「まあ、貧しかった。道にドロップが落ちていた。それに、蟻の群れが群がっていた。その蟻を手で、払い、ドロップをなめた、記憶がある。そんな時代だった。
幾ら戦後間もなくでも、前橋総社町の大地主の息子さんがですか!?」
この頃は、我が家は、田畑が少なく、思い起こせば、わたしの、お爺さんが、やり手でした。
畑が少ないから、耕作面積を、大きくしようと、考えたのでしょう。
どこかで、畑を売るという話があると、その畑を買いました。
こんな事を4回か、5回、繰り返すと、当時としては1丁5反の畑の耕作面積になりました。
また、当時は、畑の値段も、安かったことも、幸運でした。
また、お爺さんは、朝から晩まで、人一倍、働きました。
また、おふくろの代になってから、田んぼが、無いので、畑を新田に開発する時に、田んぼを購入しました。
当時から米不足で、政府は巨額の金で、人口の川を利根川から引き、それで、水を供給するというのでした。
こんな、訳で、我が家では、畑が、あちこちに、離れておりました。
また、この頃は、どこの家も貧乏でした。幸いなことに、群馬県は、絹の一大産地、だったことも、幸いしました。
富岡製糸工場から、女工を育成し、日本全国に、繭(まゆ)から生糸を作る先生を、養成したのも、このためです。
ヨーロッパでは、日本の絹のことを「maebasi]と、読んでいたのです。NHKプラタモリより。
その貧乏ですが、どこの子供も、つぎはぎだらけの、上着やズボンを着ていました。
収入も少なく、(ところが、わが家では、他の家より、収入は多かったと今では、推測できます)、食べ物も、粗末なものでした。
こんな事が、引きずって、今のわたしになったのです。
小さい頃を、思い出して、贅沢はしてはならないと。そして、お爺さんを見て、勤勉であれと。
ただ、最近は、もう、先がないから、好きなものを食べようと思い、
毎日、桃を一つ、夏なので、スイカを一つ、時々、メロンを食べております。このメロンは、一つ買うと、終わらせるのに、苦労します。
そんなに、食べられないのです。
それと、健康管理で、刺身は、毎日、食べております。
肉は、少ないです。
>それと、健康管理で、刺身は、毎日、食べております。肉は、少ないです。
羨ましい限りです。刺身盛り合わせやうなぎの蒲焼など何年も食べておりません。安いひき肉やバラ肉、卵をタンパク源としております。
「羨ましい限りです。刺身盛り合わせやうなぎの蒲焼など何年も食べておりません。安いひき肉やバラ肉、卵をタンパク源としております。」
何と、言いましょうか。困ったな。
ここでは、自らの事だけを、書きます。
もう、先が無い。
今まで、苦労してきた。
これといった、旅行などしていない。
通信教育と、株式で、終わってしまった。
せめて、このくらいはと、思いまして。
これは、健康管理のためです。