小さい頃の思い出2(6.7.9)10時44分

堅実さん

(今日は、持ち株で、特にこれといったところはありません。

 7004日立造船、ほぼ、下げ止まったようです。

 5707東邦亜鉛、横ばい。これで、ほぼ、底値は確認した後で、

 株価は、横ばい状態です。後は、2年間の辛抱です。

 1301極洋を買い増しました。

 成長株と言えば、

 4980デクセリアリス。

 7532バンパシホールデング(ドンキホーテ、長崎屋)

 8591オリックスでしょうか。

 この3銘柄は、安心して持っていられます。)


こんな爺さんのブログを、予想外の人に、見ていただいて、有難いです。終戦後の事がわかると、思います。


とにかく、その頃は、物資が全て不足していた。木炭バス(蒸気バス)の事を、書いておこう。


当時は、日本全国、ほとんど、蒸気機関車だった。上越線でさえ、電化されたのは。小学生になってからだった。両毛線などは大人になってから、電化された。


木炭バス(蒸気バス)は、バスの後ろに釜(蒸気を作る2つ並んだ高圧ガスの大きな形のものが、2つ縦に並んでいた。車掌は男で、この釜に、薪を燃やす。蒸気が出来たら、その力でバスを動かすのである。


停留所から、動く時の事、お婆さんと、乗ってみた。中はとても高いと、思った。さて、それからである。バスが動かない。そこで、車掌と、乗客の2人が、バスの後ろから、バスを押し出す。何とか動くと、その3人は、走ってバスに、乗りこむ。バスはのろのろの速度で、自転車に追い抜かれる有様。


時速、6キロくらいだろうか。とにかく、情けない話である。


復葉機の話もあるが、長くなるので、次の機会に。


小学生の1年生の頃は、家の裏が竹藪だったので、筍が出ると、皮が落ちる。それを、姉と拾って、庭先で乾燥させる。それを、買いに来る業者がいた。一枚、1円で買ってゆく。しかし、その時、姉と2人きりだったので、「これは、ここが赤くなっているから駄目だ。」などと、難癖を言い。そして、それを、売り物にならないと思わせて、帰る時に、4枚1円で、買ってゆく。何だい、欲しかったのかい。

結局、20枚くらいでも、12円くらいだった。随分悪どい商売である。この時の、アイスキャンデーが、一つ10円だったから、ほとんど、報酬はゼロに近い。


 思い越せば、この頃は、インチキな商売が多かった。家では、鶏を7羽くらい、飼っていた。その鶏を交換して、その差額をとって行く業者である。鶏を自転車の籠の中に入れて、家の鶏と交換するのである。その交換の差額を、取っていくのである。「この鶏は、もう卵を産まない。」といい、交換してゆく。

実際は、卵を産んでいるのである。他の家でも、同様に、交換してゆく。


また、古金を買いに来る、業者もあった。鉄くず、銅線などを、買ってゆくのである。当時は確かに、金属が不足していた。三菱マテリアルなどは、優良企業だったと思われる。また電気が、3日に一度停電するので、アルミニューム製造メーカーは、無かった。電気が日常生活でも、不足していたのである。これも、悪どい事をやっていたと思う。今は相場が安いからと言って,ただ同然で、小銭を、置いてゆくのである。


 この頃は、日本では、農林水産業が、90パーセントなので、働くところもないので、こんな、商売が、有ったのだと、思う。

 

4件のコメントがあります
1~4件 / 全4件
堅実さん
田舎友一  さんへ

「集団就職で東京に就職し、商品を積んで薪トラックで配達していたのですが、丸の内の丸ビルの前に駐めて商品を降ろして搬入してたら、薪を焚いてる煙が全部丸ビルの中に」

この時は8月30日の、三菱ビルの爆破事件です。
その翌日、31日に、見に行きました。
道路は、割れたガラスで、散乱していました。
通行止めの、標識があり、人は誰も、いませんでした。
道路の割れた、ガラスは、粉々で、とても、その道路を歩ける状態では、ありませんでした。



こんち^^

おらの珍席が良く言ってた話しで、丸ビル事件というのが有りました。

集団就職で東京に就職し、商品を積んで薪トラックで配達していたのですが、丸の内の丸ビルの前に駐めて商品を降ろして搬入してたら、薪を焚いてる煙が全部丸ビルの中に┗(・o・)┛ワオー!!
もの凄く叱られた・・・っていう話しですがね。。。
いや~~~(///o///)ゞ
あの時ほどおったまげぇ~~~の時は無かったって。
なんでもその頃は、バイクの免許???だったかと思うのですけど、それを取ると、何もしなくても書き換えの度にどんどんどんどん昇格していき、大型2種まで持ってました。。。
っま゛、、、去年、9十幾つかでお亡くなりになりましたが。
堅実さん
kouboudaisi   さんへ

「木炭バス(蒸気バス)は、バスの後ろに釜(蒸気を作る2つ並んだ高圧ガスの大きな形のものが、2つ縦に並んでいた。車掌は男で、この釜に、薪を燃やす。蒸気が出来たら、その力でバスを動かすのである。

停留所から、動く時の事、お婆さんと、乗ってみた。中はとても高いと、思った。さて、それからである。バスが動かない。そこで、車掌と、乗客の2人が、バスの後ろから、バスを押し出す。何とか動くと、その3人は、走ってバスに、乗りこむ。バスはのろのろの速度で、自転車に追い抜かれる有様

逆に関心します。よくもまあ、薪ストーブエンジンバスなどを造ったものです。」


ありがとう、ございます。

当時は、小さいから、分らなかったのですが、石炭さえも、不足していたのではと、思います。

石炭は、蒸気機関車の燃料として、火力が強いので、よかったのです。

物資を運ぶには、止めることは出来ません。

あそらく、政府は、蒸気機関車を、優先していたのです。

このため、一般家庭には、まだ、石炭は、出回らなかったと思います。

小学校の1年生では、冬の暖房は、炭での暖房でした。

それも、午前中だけです。そして、ほんの、僅かです。

これでは、教室が、温まらないです。

そんな、時代でした。

これで、分ると思います。

道に落ちていた、ドロップを、蟻を払って、なめたことを。


>木炭バス(蒸気バス)は、バスの後ろに釜(蒸気を作る2つ並んだ高圧ガスの大きな形のものが、2つ縦に並んでいた。車掌は男で、この釜に、薪を燃やす。蒸気が出来たら、その力でバスを動かすのである。

停留所から、動く時の事、お婆さんと、乗ってみた。中はとても高いと、思った。さて、それからである。バスが動かない。そこで、車掌と、乗客の2人が、バスの後ろから、バスを押し出す。何とか動くと、その3人は、走ってバスに、乗りこむ。バスはのろのろの速度で、自転車に追い抜かれる有様


逆に関心します。よくもまあ、薪ストーブエンジンバスなどを造ったものです。



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