2024年初以来の米国と日本の株式市場において高まっていた楽観論には、違和感を感じる人が多かった。8月初めの円急騰・日本株暴落と米国株式の一定の下落は、この違和感の正当性を検証するものとなった。違和感とは、(A)日本株高は日銀の誤った過剰金融緩和によってもたらされたバブルであること、(B)日銀が過剰金融緩和政策を止めることでバブルが萎むことの2点である。しかし、株価のV字回復(日経平均株価は25%、1万0700円超の暴落の後、5日間でほぼ半値戻しを達成:終値ベース)により、違和感が正しくはなかったことは明らかになりつつある。
株価暴落により日本株式は一段と魅力的になっている。好調な企業業績、急激に魅力度を強めた株式バリュエーションは、「日本株を持たざるリスク(FOMO)」を感じている全投資主体には良い買い場を提供しているのではないだろうか。むしろ、この暴落が今秋から来年への株価上昇の跳躍台となる可能性があることを考えてみたい。
(1)なぜ大暴落が、大相場の始まりと考えられるのか
①拙速な利上げは封印され、安倍=黒田リスクテイク支持路線の堅持が表明された
7月31日の日銀の拙速な利上げと、植田日銀総裁によるタカ派スタンスの記者会見は人々を驚かせ、直後の株価暴落を引き起こした。日銀は市場(=株価)重視の政策運営をすることの緊要性を思い知らされたとみられる。これにより今後、性急な金融引き締めが封印されることは間違いない。
8月7日に内田日銀副総裁は「市場が不安定な状況で利上げすることはない。時期は選べる(behind the curveに陥っていない)。わざわざ危ない時に利上げしない。中立金利(引き締めでも緩和でもない中立水準の金利)は手探りで探すしかなく、時間をかけて求め続ける余裕がある」と述べて、植田総裁の前のめりの利上げ発言を修正した。日銀内で最も影響力を持つと見られている内田氏のコメントにより、日銀が安倍・黒田リスクテイク支持路線を継続していくことがほぼ確かとなった。
米国では「グリーンスパン・プット」「バーナンキ・プット」など市場が急落する場面で、中央銀行が金融を緩和して市場を支えた事例が頻発したが、日本もそうした時代に入りつつあるのかもしれない。
②政策運営に対する審判官として株式市場が機能し始めた
NISA(少額投資非課税制度)による株式投資の浸透、政府が音頭をとる「貯蓄から投資へ」がブームとなる中での株価暴落は、ニュー・エントリーの投資家に多大な損失を与えた。世論の政権批判が一気に高まり、政権にとってにわかに株安是正が緊急課題となった。日本銀行、財務省、金融庁は6日午後、国際金融資本市場に関わる情報交換会合を開催し、それを受けて内田日銀副総裁による政策修正表明がなされた。また、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)など政府関連の機関投資家に対する株価支持要請、米国当局との連携、メディア工作などが遂行されたと推察される。それが8月6日以降の株価のV字回復に繋がった。
巨視的に見ると、いよいよ日本にも株式資本主義が浸透し、株安をもたらす経済政策が容認されない時代に入りつつあるのかもしれない。今までメディア、アカデミズムを影響下に置き、思うように政策を遂行できた財務省・日銀は、市場(特に株式)という新たに登場した審判官に逆らえなくなったということである。市場の合理性により政策の可否が判定される時代に入っていく。いずれ市場の反乱により財務省の異常な財政健全化路線が拒否される時が来るかもしれない。財務省に忖度する癖がついているメディア、アカデミズム、エコノミスト諸氏は、用心をしておいた方がよい。
③米国経済の最悪シナリオ(景気の顕著な減速)はいったん織り込んだ
米国失業率の上昇、株価下落、国債利回りが短期金利を下回る逆イールドの継続など、警戒信号が現れている。しかし、7月の失業率4.3%は依然として完全雇用に近く、かつ移民の増加による労働参加率の上昇とハリケーンが影響しており、基本的に堅調との見方が優勢である。
株価下落も高値からの下落率はS&P500で-6.8%、NYダウで-5.3%と循環的調整の域を出ていない。何らかの理由により投資家や消費者、雇用主などの経済主体の心理が急悪化しない限りリセッションは考えにくい。心理悪化要因としては、株安および日本の利上げが引き起こす金融不安(ブラックマンデー型)の2つが市場で想定されたが、どちらも深刻なものではなかった(後述)。
アトランタ連銀による第3四半期のGDPナウは2.9%と堅調である。最も注視されるクレジット・リスクプレミアムは先週末上昇したものの、その水準は過去の危機時と比べて低く、金融市場のストレスは全く高まっていない。そのなかで株式市場のVIX(ボラティリティ・インデックス)や代表的な短期弱気指標であるプット・コールレシオが急伸した。これらファンダメンタルズに根拠を持たない市場の嵐は、過度のレバレッジ解消に伴う癇癪と捉えられる。
とすれば、米国経済は堅調で、今後の米国の利下げは限定的であろう。すでに過剰レバレッジの調整は急進展しており、市場の混乱は沈静化に向かう可能性が高いと考えられる。
④円高の天井も見えた
以下、4つの要因により、円高が進行する可能性は低いだろう。円は1ドル=160~145円のレンジの中で安定していくのではないか。
第一に、今後、日米金利差の縮小はあまり見込めない。日銀の利上げが遠のき、米国の利下げが限定的になるとすれば、日米金利差の縮小は緩慢になる。むしろ、日本の株安と日銀の利上げ封印で米国以上に日本の長期金利が低下している。金利差縮小は一服したと言える状況である。金利差の縮小(長期・短期・名目・実質のすべてにおいて)は、すでに1年前から始まっており、為替決定要因としての日米金利差は重要性を失っていくのではないだろうか。
第二に、投機の円高も続きにくいと思われる。シカゴ・マーカンタイル取引所のIMM通貨先物ポジションを見ると、円のネットショートポジションは6月末に過去最高の18万4000枚に積み上がったが、8月9日には1万1000枚と10分の1以下に縮小しており、1カ月で円ショートの投機ポジションがほぼすべて解消されたことを物語る。
それでは今後、円ロングの積み上げがなされるかというと、それはなさそうである。過去に円のネットロングポジションが積み上がったのは、リーマン・ショック、ギリシャ通貨危機時(2008~2012年)、2015~2016年のチャイナショック時、2020年のコロナショック時など金融不安が高まった時だけであった。米国経済が堅調となれば、むしろ円ショートポジションが再度積み上げられる場面があるかもしれない。
第三に、日米の好対照のポリシーミックスは、明確にドル高・円安を志向している。そもそも拡張的財政政策とタイトな金融政策は通貨高に、緊縮的財政政策とルーズな金融政策は通貨安になるという経済学仮説(マンデル・フレミングモデル)に基づけば、米国は典型的通貨高のポリシーミックス、日本は典型的通貨安のポリシーミックスを採っていることになる。
円安インフレにより政府の税収は大きく膨れ上がっている。政府はプライマリーバランスが2025年度に黒字になるとの試算をまとめたが、2023年の-5.2%(OECD:2023年11月)からの鋭角的回復になる。それは逆から見れば、財政が2024~2025年にかけて民間需要を年間2.6%押し下げることを意味する。円安インフレは家計から実質所得の減少という形で所得を奪っているが、政府には巨額の所得移転をもたらしているのである。日本政府が税収増を貯め込みプライマリーバランスの黒字化を達成するということは、財政緊縮度を強め強烈な円安圧力を保持し続けるということにほかならない。円安を止めるには財政緊縮路線の大転換が必要、それが始まるまでは、円安基調は大きく変わらないと考えられる。
第四に、市場での円先安観は7月以降の円高場面においてもほとんど損なわれていない。市場の円先安観は金利差を上回る為替ヘッジコストによって推測できるが、日本円だけが突出して高い状態がほぼ2年にわたって続き、いまも全く変わっていないのである。日本円の対ドルヘッジコストは、2022年初めまでユ―ロなどの他通貨とほぼ同じで0%台であったが、2022年末にほぼ5%へと急上昇し、現在も5~6%と異常な高水準で推移している。日本円に対してだけ為替ヘッジコストが異常に高くなったため、日本の投資家が為替ヘッジをして米国国債投資をすれば、2~2.5%の損失となる状態が2年以上にわたって続いている。
この円の日米金利差を上回る対ドルヘッジコストは2022年春先からの円安の急進展とともに急上昇し、それ以降、金利差を2~2.5%上回って推移している。それは市場が年間2~2.5%の円安を想定していると理解できる。
⑤日本株のバリュエーションと需給は一段と魅力的になった。今後の日本経済、設備投資に順風が吹く、消費には実質増税インフレによる実質所得減という逆風と、資産効果がもたらす順風がある。→緩やかな成長持続へ
(2)底値で不安を掻き立てた悲観論、ブラックマンデー再来説
今回の急落場面で、ブラックマンデーの再来という恐怖心を煽って、市場を売り叩いた投機家が暗躍したとみられるが、それに呼応して「バブル崩壊来たれり」と悲観論を声高に主張したお決まりのオピニオンリーダーが、底値で不安を掻き立てた。
強調されるべきブラックマンデーとの相違点、ドル信認の有無
確かに今回の暴落は、(A)ファンダメンタルズに問題がないのに、需給要因の急速な悪化が売りが売りを呼ぶフリーフォールを引き起こしたこと、(B)フリーフォールの原因としてアルゴリズムによる売りスパイラルが作動したこと、という類似点がある。ブラックマンデーは、当時普及し始めたポートフォリオインシュアランスという金融技術で個々人の損失をミニマムに抑えるアルゴリズムによる売りが一斉に作動し、買い手不在の市場崩壊を引き起こした。今回は円売り・日本株買いの投資ポジションが極端に積み上がり、一旦見込みが外れたことで、円買い・日本株売りの反対売買が相乗効果をもたらして市場の崩落を引き起こした。
しかし、むしろブラックマンデー当時との決定的相違点である、ドル信認の有無という背景が重要である。1987年当時は、米国の双子の赤字により脆弱化するドル信認を立て直すことに国際協調の主眼があった。同年2月にはドル信認の回復のための国際協調ルーブル合意が結ばれた。就任後間もないグリーンスパンFRB(米連邦準備制度理事会)議長は、ドル防衛のため利上げを余儀なくされていたが、西ドイツによる対インフレの利上げが米国の金融運営を困難にし、国際協調にひびが入った。その環境下でニューヨーク株式は年初から8月までに30%と大幅に値上がりしており、市場には違和感が高まっていた。それが1987年10月19日、ダウが一日で23%、508ドル安と暴落したブラックマンデーの背景であった。
それに対して今回は、ドル信認が十分に高く、米国国内での貯蓄も潤沢で、FRBはドル信認に気兼ねすることなく自由に利下げができる環境である。日本の利上げが国際金融不安をもたらす要素は何もないと言ってよい。確かに日本の利上げと米国の利下げという対照は当時と似ているが、だからといって「ブラックマンデーの再来」と呼んで市場を恐怖に陥れるシナリオには無理があった。
市場不安を高めた「円安・株高バブル」崩壊論
他方、日本では常連のアベノミクス批判論者や緊縮財政論の人々が、「アベノミクス・黒田異次元金融緩和は円安・株高バブルをつくりだしたが、その審判の時が来た」と主張した。
エコノミストA氏は、「日銀がつくりだした円安・株高バブルの崩壊のような側面が強いのではないか。……世界的な物価高騰の下でも維持された日本銀行の異例の金融緩和が生んだ『円安・株高バブル』の崩壊が背景にあると考える」と述べた。
また、B教授は「世界株式市場は、完全にバブル崩壊になったはずのコロナショックから、『おまけバブル』が3回もあった。すなわち、コロナ支援金バブルという『おまけバブルその1』、アメリカの中央銀行であるFED(連邦準備制度)の利下げを勝手に期待する、金融政策プットオプションバブルという『おまけバブルその2』、そしてAI(人工知能)、半導体バブル、あるいは「マグニフィセント6」(7と言われているが、テスラを除くので6)バブル、あるいは直接的にはエヌビディアバブルという『おまけバブルその3』である。つまり、『バブルのおかわり』を要求する投資家たちに応えた、バブルのアンコールを3回も繰り返した」と主張した。
更にC会長は「いまマーケットは異常なカネ余りの最終段階で、株価はいつ弾けてもおかしくない。近々、大暴落しますよ。そんなタイミングで新たなNISAが始まり、マーケットの過熱ぶりにさらに火をつけてしまっています」などと主張した。
これらの勇気ある異論には敬意を表したいが、万一その仮説が正しくなかったならば、率直に論理是正をしていただきたいものである。
(2024年8月14日記 武者リサーチ「ストラテジーブレティン361号」を転載)
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