証券業界の風雲児は健在、熱き想い「これまで」と「これから」
松井道夫氏
松井証券 代表取締役社長
今年で手数料が自由化されて20年が経つ。松井証券 <8628> の松井道夫社長といえば、かつて証券界に押し寄せた自由化ビッグウェーブの立役者であり、インターネット取引の先駆者でもある。現在に至るまでの常識を超えた革命的経営の裏側、そして松井証券と株式市場の未来について、熱き想いを存分に語ってもらった。(聞き手・中村潤一)
――遡ること24年前、松井証券の社長を引き継いだ経緯について教えてください
僕は現在66歳ですが、ちょうど今の年齢の半分くらいだった34歳の時、1987年に松井証券に入社しました。それまでは大学を卒業して23歳の時から日本郵船に勤めていました。30歳を過ぎてから結婚しましたが、妻となった人が松井証券の2代目社長である松井武の一人娘でした。松井証券は地場証券ながら東証の正会員で、当時で約70年の歴史を有する老舗の証券会社でした。
しかし、結婚した時は松井証券を継ぐつもりは微塵もありませんでした。家内も当初は務台という僕の姓を名乗っていました。自分としては、郵船という会社が好きでしたし、いつかは海外赴任の望みも叶って、日本と海外を行き来するサラリーマン生活を送るのだろうと漠然と考えていたのです。それまでは、証券会社とのつながりといえば、野村と山一を通じ中国ファンドを買ったくらいの交わりしかなかったし、もちろん株式取引なんてやったこともない、そのくらい証券界とは無縁の立場にいました。
僕の義理の父、松井武は2代目で証券界としては珍しく東大出身ですが、真面目で、株屋というより学者のようなタイプであり、戦後取引所が再開した1949年に社長となって以来約40年間社長を務めました。僕はちょっとへそ曲がりなところがあって、もし自分に跡を継いでくれという要請があったとしたら、絶対に継がなかった。それを言われなかったから逆に気になったともいえます。結局のところ、自分が松井証券を背負って立つなどという強い思いもなく、本当にその時の細かい経緯は思い出せないけれど、いわゆる成り行きで社長を継ぐ形となりました。
松井武の後は、彼の弟であり、僕の大学(一橋大学)の先輩でもある松井正俊が引き継ぎ3代目社長となりましたが、僕は90年代に入ってから社長的な業務を行うようになり、95年に4代目社長に就任しました。
――社長就任後の経営における信念や松井証券に対する想いについてお聞かせください
社長を継ぐ決心をした僕に松井武はこう言いました。「おやんなさいよ、…でも、つまんないよ」と。僕が松井証券に入ったのはちょうどバブルが始まるころ、1987年ですが、当時海運業界は証券界の高揚感とは正反対の不況の只中にありました。何をやっても儲からない、苦労しても報われない海運業界に身を置いていただけに、競争に晒されることなく、“なあなあ”な感じで証券会社が大儲けすることに正直なところ嫌悪感を抱いていました。おそらくこんな状況が長く続くはずはない、どこかで海運業界と同様に自由化の波に洗われ厳しい競争を強いられる時が来るはず、と直感したのです。
僕はバブルというものに対して斜に構えていた、というかバブルを憎んでいたといえるかもしれません。大した努力もせずに法定の手数料をとって、バブルの中で踊っている。そういう証券業者の姿を見て憎らしく思っていた、というのが正直な気持ちです。
僕が松井証券に来る前にいた海運業界は、レーガン米大統領やサッチャー英首相時代の自由化戦略、規制緩和の大波に晒されて極めて厳しい環境下で仕事をしていました。だから、バブルが崩壊した当初は、これまで左うちわで我が世の春を謳歌していた証券業者に対して「ざまあみろ」という思いが強かったのですが、自分が松井証券を継いで社長業を行う立場となって、そうも言っていられなくなった。誰かに頼まれて押し付けられた社長ならば、その誰かを憎めばよいが、そうではなく自ら「私がやりましょうか」と名乗り出て、「でも、つまんないよ」とまで言われたのに、引き受けて業績をガタガタにしてしまったのでは、これほど情けない話はありません。
バブル崩壊後も証券不況は長く続くことになりましたが、僕には郵船という教科書があった。海運業界で一足先に強烈な自由化の波を経験しており、それが強みになったわけです。松井証券をこのまま沈めてしまってはいけないと考え、社長に就任する前の30代後半から外交セールスの廃止など抜本的な社内改革などをいろいろ進めました。そして95年に社長になってからは、業界に対して自由化論者としての立場で動きました。
――手数料の自由化とネット取引への業態転換で松井証券は大きく変わりましたね
予想通り99年に証券界で手数料自由化が実施されました。僕はよく「インターネット証券に鞍替えしたのは凄い先見の明の持ち主ですね」と言われるのですが、実際それまでネットに対する興味などこれっぽっちもありませんでした。ただ、嗅覚というか、何かここに商機が眠っているのではないかという気がしたので、シリコンバレーに行っていろいろなIT企業の人間と話し、これは大きな波になると感覚的に学ぶことができたのです。
結果として証券界には同じ時期に手数料自由化とネット取引という2つのビッグウェーブが押し寄せてきました。世間では、僕に対してインターネットというツールを使ってビジネスを始めたということを評価しがちですが、正直なところ、たまたまそこにツールが転がっていたというだけのことです。僕にとっては、それよりも自由化とは何か、競争とは何かという方がよほど大きな命題でした。
簡単にいってしまえば自由化とは消費者側のニーズを汲み取り、サービスを提供する側がコストを根元から変えることを意味します。僕が社内の猛反発を押しのけて実行した外交セールスの廃止などもそうですが、物事を一から考え直そうというのが自由化なんだと。ネット取引導入以前からそうした血の滲むような取り組みがあったわけです。
しかし、それにしてもネット取引の普及は想像を超えていました。開始直後に個人投資家のネット取引の市場規模の見通しについて聞かれて、ぼくは「1兆円くらいはいくのではないか」と答えたら、「えっ、一ケタ多いのでは? 1000億円くらいではないか?」と言われました。ご存知のように今は個人の株取引の9割がネット経由であり、その市場規模は200兆円を超えています。
――実際、自由化を契機に証券業界の勢力地図も大きく変化しました
自由化当初は証券界も甘く考えていたというか、1975年の米国のメーデー(証券市場改革)のように、自由化後に手数料は上がると考えていた向きが多かったのです。しかし、僕は断固として下げる意思を表明し、業界は大騒ぎになった。あの頃は僕も若かった。裏切り者呼ばわりされても、「ああ、そうですか」とどこ吹く風でしたね。
その次に僕が考えたのが、松井証券の上場です。別に金が欲しくて上場したかったわけではありません。当時、松井証券は信用取引残高が急拡大し、このまま行くと野村証券を超えてしまう勢いにあり、自己資本規制比率が法定基準を下回ってしまうという状況にありました。これをクリアするためには、自己資本を充実する以外に手がなかったのです。このまま“商売繁盛営業停止”に陥ってはたまらないということで、時間との勝負で上場準備をしました。それも店頭や東証2部ではなく東証1部への上場です。あの時の東証1部への直接上場はNTT <9432> 、三菱自動車工業 <7211> に続く形で、かなりハードルが高かったのですが、2001年8月に無事上場を果たすことができました。
上場時の株価は非常に低い位置からのスタートでしたが、その後は06年にかけて一貫して上昇トレンドを形成しました。上場時に高値をつけて、その後は下がり続けるような銘柄が多いなかで、小さく生んで大きく育つ形となった当社のケースは最も理想的なIPOといえるのではないかと自負しています。
株式市場は、05年から06年にかけてピークをつけに行く形となりましたが、06年にはライブドアショックがありました。ちょうどこの頃、個人的にも証券界はこれから過当競争が激化していくであろうという雰囲気を感じていました。それは、ともすれば海運業界の時に遭遇した試練の記憶、いわゆるデジャブに似た感覚です。そして時代はその通りに進みました。
――ネット取引も今や当たり前になり、ネット証券同士の競争も厳しくなっています。ここから抜け出すためにどういったビジョンをお持ちでしょうか
これからの証券界には、例えばあと5~6年したら、おそらくこれまでとは全く違う新生命体のような資本が入ってくるのでないかと考えています。これは、たぶん証券界に限らずいろんな業界で起こり得る事象だと思います。過去の延長線上にある資本ではなく、全く別次元といってよいエイリアンのようなもの。10年もすれば証券界は今とは全く異なった風景が広がっているのではないでしょうか。その際に、盛んに取り沙汰されているAIやIoTは、かつてのインターネット取引と一緒でツールに過ぎない。いろいろな意味で概念そのものが変わってくる。会社と社員という概念さえ消え去る可能性があるでしょう。
では自分がその世界を主導するのか、といえば答えはノーです。僕は「おやんなさいよ、でも、つまんないよ」と言われて、何クソとばかりにこれまであったものを片っ端から壊してきましたが、幸運だったと思うのは、これは大きな会社だったら絶対できなかったということです。有無を言わさず既存の枠組みを壊して新しいものを取り入れた結果、今がある。しかし、中国古典に「後生畏るべし」という言葉がありますが、時代の変遷とともに価値観もどんどん変わっていくわけであり、新しい価値観は後生が作り出すしかない。
「じゃあ、あなたは何もしないのか」と問われればそうではありません。後生が新しい価値観を創生していくうえで、邪魔になるものを取り払い、これまであった既存の枠組みを壊すのが自分の役割であると認識しています。そして、後生にはそこに新たなものを築いてもらいたいという想いを強く持っています。
いうなれば創造的破壊です。この場合、破壊が先になります。新しいものは古きを消し去った余白にしか入ってこない。これから先は、この意味を感覚的に理解している社員と力をひとつにしていければと思っています。
――今の株式市場は個人投資家が減っているという印象が強いです。今後も含め、これについてはどうお考えですか。また、個人投資家にアドバイスがあればお願いします
現在の個人投資家の株式市場全体に占める売買シェアは15~17%。もともとは30%くらいあったものが次第に減って今の水準となったわけですが、単純に15%程度減少したと考えたら大きな誤りです。2013年に信用取引の回転売買が解禁され、その結果デイトレーダーの売買が急増したのです。今、デイトレーダーの売買の割合は個人全体の50~60%を占めており、回転売買が解禁される前のモノサシで考えた個人投資家の流動性は実質的に6~7%でしかないのです。こんな状況は戦後の株式市場で未だかつてないといっても過言ではないのです。
では、機関投資家はどうかといえば、機関投資家は人間の血が通わないHFT(超高速取引=コンピューターによる自動売買)に席巻されている状態です。この株価形成を決める売買主体の変化が需給バランスを大きくゆがめているという事実を分かっている人は意外に少ない。ましてや、これに日銀のETF買いなど巨額の機械的な買い入れも加わっているわけで、こんな歪(いびつ)な市場に個人投資家は入ってくる気がしない、というのは当たり前の理屈なのです。しかし、個人投資家は総体としては賢い。そうした動きに左右されない中小型株に資金が向かうのは個人の知恵として必然の流れであり、これを理解していないのはむしろ証券業者の方です。
また、こうした市場において投資手法として有効なのは何かと考えた場合、最も大切なのは時間分散です。これは昔からリスクを低減させる有力な手法でしたが、これが分かっている人は投資でそれほど大きな失敗をすることはないのではないかと思います。
◇松井道夫(まつい・みちお)
1953年長野県生まれ。1976年に一橋大学経済学部卒業後、日本郵船に入社。1987年に義父が経営する松井証券に入社すると、外交セールスの廃止や株式保護預り料の無料化などを断行。1995年に4代目社長に就任し、1998年に日本初の本格的インターネット株取引サービスを開始した。松井証券は2001年に東証1部に上場、2018年5月には大正7年の創業から100周年を迎えた。
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