AAI Fundさんのブログ

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最近書いたブログ

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    勝手口から入ったところの台目畳が亭主座 如庵

    床の間は亭主の右手後方に位置することになるが、出床にしたため距離的には離れず、亭主座の風炉先に中柱を立て板壁で仕切っています。中柱と板壁で風炉先にある相伴席の半畳を亭主畳と区切るとともに下部は丸く切り欠いて吹き通しにして相伴者の視線への配慮もぬかりなく、鱗板とともに異例の構成であるが不合理性は感じられず、「利休七哲とは別格」といわれる有楽斎の並々ならぬ技量を示しています。如庵(じょあん)は、愛知県犬山市の有楽... ...続きを読む

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    清津峡渓谷トンネルは全長750メートルの歩行者専用トンネル 

    その後しばらく渓谷美を見ることができなくなっていたが、地元住民や観光客から要望が多数寄せられたことを受け、安全に渓谷美を楽しむことができるよう、歩道トンネルの建設が決定。1996年(平成8年)10月1日に清津峡渓谷トンネルが開業しました。建設省(現・国土交通省)は清津峡に清津川ダムの建設を計画していました。高さ150メートルの重力式コンクリートダムで、総貯水容量は1億7,000万立方メートルという巨大な多目的... ...続きを読む

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    建物の傍らには滝廉太郎の銅像が設置 旧東京音楽学校 奏楽堂

    ホール中央部天井をヴォールト状にするなど音響への配慮、壁面・床下に藁・大鋸屑を詰めた層を設けるなど遮音への配慮がなされています。旧東京音楽学校 奏楽堂(きゅうとうきょうおんがくがっこう そうがくどう)は東京都台東区上野公園にある歴史的建造物。日本で最初に建てられた本格的な西洋式音楽ホールとされています。文部技官山口半六と久留正道の設計[2]により東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校のオーディトリウム(... ...続きを読む

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    薬師如来像が坐している円形の蓮華座は後世のもの 勝常寺

    両脇侍像は一木造で、薬師像よりは細身で穏やかな面相に作られており、腰高のプロポーションなどに奈良時代風がうかがえます。両脇侍像は片腕を体側に下げ、片腕を曲げる対称的な姿をしており、右腕を下げる像を日光菩薩、左腕を下げる像を月光菩薩と称するが、本来の配置は左右逆だったとの説もあります。なお、中尊像、両脇侍像ともに部分的に乾漆を盛り上げる技法が用いられていて、像高は薬師如来像が141.8cm、日光菩薩立像が169... ...続きを読む

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    難所の鶏沢の城下町側に接する地 大崎八幡宮

    明治以降、大崎八幡神社と称していたが、平成9年(1997年)に大崎八幡宮の名称に復した。国宝社殿本殿、石の間、拝殿 - 豊国廟を模したとの伝承があり、桃山建築の優秀な遺構として昭和27年(1952年)国宝指定。大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)は、宮城県仙台市青葉区八幡にある神社。旧社格は村社。社殿は国宝に指定され、どんと祭の裸参りで知られています。創建年代は不明ですが、社伝では坂上田村麻呂が宇佐神宮を鎮守府... ...続きを読む

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    奥州藤原氏三代ゆかりの寺として著名 中尊寺(ちゅうそんじ)

    清衡は寛治3年 (1089年) には陸奥押領使に任命され、嘉保4年 (1094年) 頃には居館を江刺郡豊田館 (とよたのたち、奥州市) から、中尊寺のある平泉に移しています。このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、... ...続きを読む

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    飫肥(おび)は宮崎県南部日南市中央部にある地区

    飫肥(おび)は1977年(昭和52)国(文部大臣)により九州・沖縄地方で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定される(岡山県吹屋と共に、我が国で2番目に選定された2地区の1つ)。保存地区内には城下町時代の道路や地割が良好に保存され、石垣、土塀、生垣で囲まれた武家屋敷跡が残る。地区内には飫肥城跡のほか、最後の藩主伊東祐帰(すけより)が住んだ邸宅である豫章館、振徳堂(藩校)、小村寿太郎生家などがある。飫肥... ...続きを読む

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    江戸末期にすでに構想 明正井路一号幹線一号橋

    明正井路一号幹線一号橋の「明正」の名は、計画及び工事が明治時代から大正時代にわたって行われたことに由来します。明正井路一号幹線一号橋(めいせいいろいちごうかんせんいちごうきょう)は、大分県竹田市大字門田の大野川水系緒方川に架かる水路用石造アーチ橋。明正井路第一拱石橋(めいせいいろだいいちこうせききょう)とも呼ばれています。明正井路一号幹線一号橋は、2002年に土木学会選奨土木遺産に選定されています。明正井路... ...続きを読む

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    熊本城 忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営

    加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならない状況でしたが、細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発でした。このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出ています。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居ます。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として... ...続きを読む

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    虹の松原に関する不思議な言い伝え等を七つ並べたもの

    虹の松原七不思議虹の松原に関する不思議な言い伝え等を七つ並べたもので、市民団体等が歴史の学習活動等で使うことがあります。しかし、藩政時代に植林されたにもかかわらず豊臣秀吉が絡むものなど、事実として誤りでしかないものもあり、内容も一定ではなく変遷があります。虹の松原は、佐賀県唐津市の唐津湾沿岸に広がる松原です。日本三大松原のひとつで特別名勝に指定され、日本の白砂青松100選、日本の渚百選、かおり風景100選、... ...続きを読む

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    阿波国分寺は、史実としては、正確な成立過程は不明

    阿波国分寺は、天正年間(1573 - 1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していましたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となりました。阿波国分寺は、徳島県徳島市国府町矢野に位置する寺院です。四国八十八箇所霊場の第十五番札所で、札所寺院としては単に国分寺と呼ぶのが通例です。薬王山... ...続きを読む

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    大田山大願院豊楽寺 本尊は薬師如来 別名は柴折薬師

    豊楽寺 建築史家の太田博太郎は、本建物の内陣(方3間)が、建物の中心ではなく後方寄りに設けられていること、内陣の柱と側柱(建物外周の柱)の柱筋が食い違っていることなどから、本建物の建立時期は平安時代までは上がらず、鎌倉時代初期とみています。いずれにしても、四国における現存最古級の建築です。豊楽寺は、高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。山号は大田山。大田山大願院豊楽寺と号する。本尊は薬師如来。別名... ...続きを読む

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    三仏寺 国宝 奥の院(投入堂)

    三仏寺 奥の院「投入堂」について当寺の奥の院たる「投入堂」は、険しい登山道(行者道)を登った先、三徳山の北側中腹の断崖絶壁の窪みの中に建てられており、堂の上方は岩壁がオーバーハングしています。堂が所在する場所は文字通りの絶壁となっており、参拝者は堂を斜め上方に見上げる地点までは立ち入りが出来るが、堂に近付くことは危険なため固く禁じられています。過去に投入堂に近付こうとして滑落死した者もいるとのことです。三仏寺... ...続きを読む

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    功山寺は山口県下関市長府にある曹洞宗の寺

    功山寺 国宝仏殿 - 柱の墨書により元応2年(1320年)の建立と判明する。入母屋造、檜皮葺き。一重裳階(もこし)付き。方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形になる。堂内には本尊千手観音坐像を安置。典型的な禅宗様仏殿で、鎌倉時代にさかのぼり、建立年代の明らかなものとして貴重です。功山寺は山口県下関市長府にある曹洞宗の寺。長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十... ...続きを読む

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    嚴島神社は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社

    嚴島神社 国宝建造物 厳島神社(1件6棟) 本社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣(不明門を含む)、左右内侍橋) 本社祓殿摂社客(まろうど)神社本殿、幣殿、拝殿(1棟)(附 玉垣) 摂社客神社祓殿 廻廊東廻廊 廻廊西廻廊 (本社の附)高舞台、平舞台、左右楽房、左右門客神社本殿、棟札4枚 (廻廊の附)棟札19枚嚴島神社は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社で、式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社... ...続きを読む

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    大吉備津彦(おおきびつひこ)命 吉備津神社

    吉備津神社 中世には武家の崇敬を受け、たびたび社殿の修復や社領の寄進があった。江戸中期には三重塔を破却し神仏分離を行い、明治4年(1871年)に国幣中社に列し、公称を現在の「吉備津神社」に定めた。大正3年(1914年)には官幣中社に昇格しました。吉備津神社 岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備の中山(標高175m)の北西麓に北面して鎮座します。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津... ...続きを読む

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    江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存 姫路城

    別名「白鷺城」の由来は以下のような説が挙げられています。姫路城が「鷺山」に置かれているところから。白漆喰で塗られた城壁の美しさから。ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。黒い壁から「烏城(うじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。姫路城は、播磨国飾東郡姫路(兵庫県姫路市)にあった日本の城で、別名を白鷺城といいます。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、建築物は国宝や重要文化... ...続きを読む

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    通称「太閤さんのお城」とも呼ばれている大坂城

    大坂城 江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡されました。この前後の混乱のうちに出火し、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失しました。大坂城 通称「... ...続きを読む

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    紀伊山地の霊場と参詣道

    紀伊山地の霊場と参詣道 道が世界遺産として登録されるのはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路という先例があり、和歌山県とスペインガリシア州は両古道の姉妹道提携を締結しています。紀伊山地の霊場と参詣道は、和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)です。紀伊山地の霊場と参詣道 2004年7月7... ...続きを読む

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    関宿 坂下宿までの史跡・みどころ

    関宿 史跡・みどころ関まちなみ資料館江戸末期の町家を公開。土蔵では関宿の歴史を展示する。入館料は「旅籠玉屋歴史資料館」とセットで、300円。鶴屋脇本陣 波田野家 川北本陣跡 百六里庭 伊藤本陣跡旅籠玉屋歴史資料館《関で泊まるなら鶴屋か玉屋》とうたわれた関宿を代表する旅籠建築を公開する資料館。深川屋「関の戸」は350年前からの伝統の銘菓。地蔵院寺伝によれば741年(天平13年)の開創。本堂、愛染堂、鐘楼が国の重... ...続きを読む