(略)
氏がこの作品で試みているのは、一つの持続を廻っての実験である。
悦子は幸福を求めている。
そしてそれは、彼女が退屈しているということと同じなのである。
これを描くというのは容易なことではないので、
この場合に、雨が降っているから雨が降っていると書くというのでは
何の役にも立たない。
(チェーホフがそのことを誰よりもよく知っていた)
一人の人間が退屈するのは、必ず或抵抗を前にしてであって、
それがなければ、その人間は単に無気力になっているに過ぎないのであり、
無気力を描いた文章がそれ以上のことを表現するものではない。
たとえば、一人の人間が、
自分が生きているという気持ちの充実を味わうならば、
無限の繰返しでしかない生命の持続は、
その当然の埋め合せに次にはその人間が、
そういう充実した感じを失ったのに耐えることを要求する。
或いは又、自分が生きていると感じる望みが外部から遮られれば、
その結果も望みを遮られたものの忍耐となって現れなければならない。
この忍耐が退屈の正体であって、耐えることに費やされる力が烈しければ烈しいほど、
その表現は退屈を生々としたものとして我々に感じさせる。
悦子を廻る米殿村の杉本家の生活は、
その幸福に対する欲求を絶えず堰き止めて、
自分が生きているという意識を一層に烈しく掻き立てるための装置である。
何かの抵抗がなければ芸術作品は生まれないと言ったのはヴァレリーであるが、
抵抗がなければ、人間は自分が生きているという実感を持つこともできないのである。
それは生きるということそれ自体が、絶えず何かの抵抗を求めることであることも意味している。
この作品の作者はその点で、一人の女が生きていく上で完璧な条件を実現したことになる。
しかしそれを完璧にしているのは悦子自身の性格の強さなので、
それだけ彼女は特異な存在なのであるが、
この人物とその環境の取合わせから起る生命の実感があまりに新鮮なので、
個人的な特色などというものを我々は忘れてしまうのである。
(昭和二十七年三月、文芸評論家:吉田健一)
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★「愛の渇き」
三島由紀夫著 新潮文庫 H23.8.5.119刷改版 P.264~265より抜粋
「雨が降ったなら、雨が降ったとお書きください」と言ったのは小林秀雄だが、
吉田健一は、そうはいかないこともあるという。
色々と考えさせられる作品と、その解説なのである。
この解説もそうだけど、「愛の渇き」にも、
一筋縄に読解できない表現が多々出現している。
とにかく、素直ではないのだ。
ストレートに表現するところを、わざわざ裏返しにした表現で書き付けてきて。
嫌々読んでいたから、いい例の抜粋ができないんだけれど、
否定形がダブルに連なってできてる文章が、複数回続いたりする箇所なんかあったりする。
そうした表現を物質化してたとえるならば、「遊星からの物体X」に登場してくる、
体の内側が全部オモテになってしまって活動している犬みたいなもんだ。
さらに、なおかつ、悦子の気もすぐ変わってしまうのだ。
子分がわざわざ気を遣って、自分は気に入らないAを選択すると、
なんでAなんだバカヤロウと親分からしかられるみたいに。
その条件で、昨日はBを選んだら、Aだろうがバカヤロウと怒鳴ってたのは親分だってのに。
前半は吉田の言うことから想像できるように、ホントウに退屈な小説だ。
「ライ麦畑で捕まえて」並に、前半はつまらない。
けれども不思議なことに、後半の1/4は引き込まれる作りになっている。
「ライ麦畑で捕まえて」並に、後半はオモロイ。
(オイラが読んだのは村上春樹訳。それ以外の訳者だったら、最後までつまらないかもしれない)
三島が狙ったのは、そういうことなんだろうか?
それで吉田は、抜粋のように解説したのだろうか?
それにしたってねぇ。。
少々マゾ気味なオイラでも、この作品は読むのが辛かった。
真正のマゾな人だったら、まぁオモロイ作品になるのかもしれない。