(略)あたりは暗くなっていた。南向きの窓越しに、シャノン河口に下っていく平原が見分けられた。
その向こうでは霧が層をなして川面を漂い、夕日の輝きをかすかに反射していた。
「たとえば、この景色です・・・」ジェドは話を続けた。「もちろん、十九世紀の印象主義的水彩画には、実に美しい作品があったでしょう。でも、もし今日、この景色を表現するとしたら、ぼくは単に写真を撮ります。反対に、景色の中に人間がいるとしたら、農夫が遠くで柵を直しているというだけでのことだったとしても、きっとぼくは絵画を選びたくなるでしょう。馬鹿げていると思われるのはわかっています。テーマなど何の重要性もない、テーマを描き方よりも優先させようとするのは愚かであり、重要なのはただ、絵なり写真なりが形や線や色彩に帰着する、そのあり様だけなのだと考える人たちもいるでしょう」
「そう、フォルマリズムの観点ですね・・・。作家にだっていますよ。そういう考え方は造形芸術よりも、文学においてはさらに広まっているとさえいえるかもしれない」
ウェルベックは口をつぐみ、頭を垂れ、そしてまたジェドのほうを見た。突如として、おそろしく悲観的な考えに襲われたかのようだった。(略)
**********************************************
★「地図と領土」
ミシェル・ウェルベック著 野崎歓訳 筑摩書房 2,700円+税 2013.11.25.初版第一刷
P.126~127より抜粋
フォルマリズムが何なのかわからずに、
オイラは最初にこの部分を読んだときに想ったのは、
いま流行だしている直感・即興的に書きあげる小説手法と、
昔ながらのプロットやキャラクターを徹底的に練りげる小説手法の違いを
言っているのではないかということだった。
ところが、フォルマリズムをネット検索してみると。
「フォルマリズム批判」
1930~1950にかけてソヴィエトで起こった芸術運動で、
それが政治の思惑と重なって、処刑された芸術家もいるという曰く付きな事柄だとなっていた。
ただし、他にもネット検索してみると、
文学でいうと、芥川賞と直木賞の違い的な意味合いのようにも取れるようだ。
作品にも登場してくるウェルべックは、後者の意味合いで語ったのだろうか?
そうだとしたら、彼はなぜ悲観的な態度を表したのだろうか?
昨晩、TV東京の深夜アニメを複数視ていた感じたこと。
今主流となりつつある直感的小説作法と異なり、
アニメの方は、プロットとキャラ設定に関して、猛烈に凝っている。
そして、今や小説読者は減りつつあり、アニメ読者は増加の一方だ。
どうやら、小説よりアニメの方がオモロイ傾向があるのだ。
直感的に書く小説手法で、果たしてアニメに勝てるのだろうか?
例えばこれに関連するようなことを、ウェルベックは懸念したのかも知れない。