「昭和の犬」東野圭吾評から、思うこと

元祖SHINSHINさん
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この作品の魅力を言葉で表現するのは、とても難しい。

特に何かを訴えているわけではない。

生きていくということ、あるいは生きてきたということを、

力を抜き、感傷的にならずに、淡々と描いている。

それだけで読者に快感を与えてしまうのだから大したものだ。

 

こういう作品は、あらすじを考えて、構成を練って、というふうにしては書けない。

その場その場の直感を積み上げていくしかない。

失敗に終わるおそれも多分にあり、だからこれまで賞を逃してきたのだろうと思う。

 

「こんなにうまい作家だとは思わなかった」という某委員の言葉が印象的だ。

今回はツボにはまったのかもしれないが、これからも失敗をおそれずに書いていただけたらと思う。

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★「オール読み物 3月臨時増刊号」P.26~27より抜粋

 

同様な作風である芥川賞の「穴」よりは、まだオモロイと思ったが、

東野圭吾の評は褒めすぎだと思われる。

 

プロットのない小説というと、先駆者は村上春樹。

彼の作品は、文体がとても魅力的なので、シナリオがありそうでなくっても

読者に快楽を与える。

 

大沢在昌が、「新宿鮫」シリーズの中で、

プロットの陰を薄くしながら、この手法を取り入れにかかったところから、

多くの作家や、これから作家を目指そうかという新人も取り入れだしたという流れ。

(これは言い過ぎなのかも知れないが、少なくともオイラがたまたま読んできた小説etc.からは

 そのように思える)

 

文藝春秋12月号の終盤記事では、三浦しをんもこの手法を取り入れて、

最近のまほろを書いたみたといっていた。

 

さらに、これは世界的な小説手法のひとつとなっているようで、

チェコ作家、ミハル・アイヴァスが書いた「もうひとつの街」も、

村上春樹的な小説作法から派生した作品にみえる。

 

こうした流れと対照的だったのが、

もうひとつの直木賞「恋歌」なのであった。

これは筋やキャラクターで読ませるという、古典的(?)というか王道的な書き方だ。

しかも、多くの人々の虚を衝きながら。

 

ところで。

世の中にはこうした流れとは、また別な角度から反抗する作家というのもいるらしい。

 

フランスで目立っているという、ミシェル・ウェルべックという作家がそれだ。

「地図と領土」というのを、今読み始めたところだが、

訳者・野崎歓の解説から先に読んでみると、

どーも彼はなかなか一筋縄ではいかないヤンチャな作家だというのだ。

 

この作品によって、フランスでゴンクール賞というのを取ったという。

それまでの作品は、あくが強すぎて、いろいろ敬遠されてきたという曰くつきな作家。

序盤は今のところ、どーってことないのだけど。

 

さて、どーなることやら。。

 

PS:新聞書評を読んだ限りでは、デイヴィッド・ゴードンの「二流小説家」を

   意識したような作品に思えたのだけど。

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