(略)実際、小説の方法と言っても道は一つしかなく、
かかる不断のメチエの鍛錬がすべてなのである。
こういうものを抜きにして語られた小説の方法は空中楼閣に等しい。
しかし世の中には、音痴というものがあるように、言葉の感覚の生まれつき鈍感な人もある。
そういう人は小説を書かなければよいようなものだが、言葉は日常使っているものであるから、
誰でも自由に使いこなせるという迷信があって、
文章もなければ文体もない堂々五百枚の自称傑作などが生まれて、
原稿用紙をいたずらに費消させることになる。
言葉のそれぞれの比重、音のひびき、象形文字の視覚的効果、スピードの緩急、
・・・・・・こういう感覚を生まれつき持った人が、訓練に訓練を重ねて、ようやく自分の文体を持ち、
はじめて小説を書くべきなのである。
インスピレーションや人生経験からいきなり小説を書こうという人が跡を絶たないのは、
前にも言うように、言葉というものを誰でも自由に扱えるという錯覚、
言葉に対する尊敬の欠如に由来するものであろう。
こういう感覚を押し進めたことが、日本の自然主義文学の最大の罪過であったと言っていい。
それまでの日本文学の伝統では「言霊の幸わう国」というように、
言葉に対する敬愛の念がいつも払われてきた。
フランスでは今日も払われている。
自然主義文学が作り出してきた小説の「素朴なリアリティー」が、何故こうまで現代日本人の頭に深くしみ込んでいるのか、私にはほとんど理解しがたい。小説における「まことらしさ」という問題が、
大てい、作者とその小説との密着した関係によって保証されるという現状である。
私には、自然主義文学、及びその末流私小説が毒したものは、
作家その人よりも、小説の読者であると思われる。
小説は正当な読者を失ったのである。
つまり読者は小説を小説として読む習慣を失ったのである。
この問題に深入りすると、本題の小説の方法を外れてくるから、近代小説と告白との関係、
私小説と近代小説の告白性との関係などの大問題は、伊藤整氏にお任せすることにして、
私は日本における小説の読者が、
いかに「素朴なリアリティー」にとらわれて小説を読むことを愛するのか、
という言い古された現象をもう一度提示するにとどめる。
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★「小説家の休暇」
三島由紀夫著 新潮文庫 昭和57.1.25.発行 平成20.8.25.十二刷改版 平成23.6.25.十三刷
「私の小説の方法」P.197~198より抜粋
納得するしかない部分がほとんどなのだが、
その奥底に、小説が空想の所以であって何処が悪いのかという、怒りの声が聞こえてくる。
小説にリアリティーが入って何処が悪いのか、という反発を不遜にもオイラは覚えると同時に、
伊藤整氏の関連本は読んでみたいと、心底思った。
三島の書いた「私の小説の方法」は、しかし抜粋したことが本筋ではなく、
後半では、三島がホントウに実践していた、小説を書く時の急所どころが記述されており、
とても参考になった。
この部分を公開するのは実にもったいないので、抜粋はしないでおこう。
新潮文庫のホッとする溜息と、オイラの営業技術に対する賞賛の声が聞こえるようだな(静笑)