官僚的組織

元祖まつよしさん
元祖まつよしさん
mixi と 個人ブログの日記の転載です

いよいよ、具体的に、脱官僚依存をキャッチフレーズにしている民主党によって、過去進められてきた公共事業への投資とはいったい何であったのか?について 次々に事実が明るみにでてきているようです。

 このことが即、自民党というのは、とんでもない悪の集団で、断固追求してとっととぶち壊してしまえなどと弾劾すべきかどうかということではないのですよと前置きをしておきます。。 
 なぜならば、戦後のかなり長い間において、公共事業は国民の所得の再分配において確かに必要であり正当化されていたことを、僕としても丸ごと否定するわけではないのですから。

 しかしながら、今回の一連の動きによって、例えば、全国各地に存在する地方空港って、実のところいったい何のために作られたらのか?について、国民の多くが今まで、 気がつかなかった、というか関心さえもっていなかった、公共事業一般というものの真の目的について、気がついてしまったという事に関して、これはもう元には戻せないところまできてしまったように思います。


 まつよしが考えたところの公共投資の真の目的とは、ぶっちゃけ、人が住んでいないような田舎にさえも雇用を創出し、それを維持することができさえすれば、そこでOKということであり、そのときの公共工事で作る対象は、空港であろうが、ダムであろうが、 高速道路だろうが、不必要に立派な箱物であろうが、実際のところは、なんであってもよかったということなのだとおもいます。
 ただし日本人というのはお金は物の対価として使うべきと考える傾向が非常につよい為に 後にかっちりとした形で残る「もの」を作る必要があったのかもしれません。
 たとえ、それが雇用対策であっても、都市政策の偏りによって子供の人口が急増している地域の図書館に司書を増やすといった類の事柄では、お金を使った具体的な結果が極めて見えにくいのでダメだったのでしょう。
 それは介護従事者の絶対数がなかなか増えず、かつ労働賃金が上がらないことの背景に、実は同様の構造的問題があったかも知れないというのはいささか、こじつけなのでしょうが。 
※ 公務員を増やせといているようにも聞こえそれは要再考。


 ところで、こういった状態が長く続いた背景には、国民一人ひとりが、「仕事」というものは、指示ざれたものを着実に実行することさえすれば、それ自体が評価されるべき「仕事」 なのであって、その評価にしたがって賃金が支払われることが 当たり前であると、 かなり長い間思い込んでいた「意識」が合ったのではないかと思うのです。


 このように上からの指示を受けて作業を進めていくやり方は、全体として大きな仕事をするのに適した制度であるのですが それを言い換えると、それがまさに 「官僚組織」と呼ばれるものなのでありましょう。

ここで、それが自民党の陰謀によるという単純なものの見方をすることなく、今現在うまくいっていないあらゆる団体、すなわち、国の機関や、地方の公務員制度から、教育制度、さらには垂直型経営の民間企業や、大きくなりすぎた会社の労働組合などをながめて見ると、押しなべてこの「官僚制度」類似の組織体系となっていることは否めない事実であると感じます。


 繰り返しますが、こういった組織形態は 「官」とか「民」とか「経営」とか「労働側」とかという区分にまったく関係なく存在するようです。

 ではこの「官僚組織」の何がいけないのかといえば、労働者の意識が、仕事の指示を発する上司に向く方が、肝心の「顧客」のに向かって話を聞くよりも多くなり、重要であると思ってしまいがちな構造にあるからに他なりません。

「顧客」のニーズをつかんだとしても、ではそれに対応して全社員がそちらに向かってすぐに行動できる組織は、一般に「大規模な組織」ではなく、仮に本体が大きな組織であったとしても、実務段階では小さな組織の複合体となっており、なおかつ、ある程度広い裁量権をもったマネージャーが現場の意見を即反映させて、運営できているところが今の社会で有利な位置を占めていると思われるのです。


 この「官僚型組織」による 『垂直型経営』 と 社内分社をかき集めた いわゆる『水平型経営』の会社の現状を冷静に眺めてみる必要があると友人と最近よく話をしています。

 現在の株式市場で、どういった会社の株価が高く、どんな会社がまったく冴えない展開となっているのか?を考えつつ、TOPIXを眺めたときに、時価総額が大きい会社とは、 概ね歴史があり、大きな組織をもち、大きいが故に進路を変えるのに時間がかかり、かつその巨大組織を運営維持するために組織が「官僚的」な硬直した組織になってしまっている場合が極めて多いのではなかろうか?との仮説を立ててみました。

 円高が進行しているにもかかわらずNT倍率が拡大していく状況を他にうまく説明できるでしょうか?


 ところで、官僚制度が駄目になったのは、自民党や国家公務員の一人ひとりが悪人であったからというような短絡的な結論を出してはいけません。
 そのような態度は、大企業の経営者とはすなわち、殺人者とも言うべき悪人であり、こいつらが考えを改めるべき(もしかしたら退場させられるべきと思っているのかもしれませんが・・・)との議論をする人の結論とまた同じようなことをしていると考えるべきでしょう。

 改めるべきは、問題を解決するための方法論として、「機能していない組織」について検証しなおすことからはじめなくてはなりません。


 ところでこの問題は実はかなり古くて新しい問題です。

大きな社会構造の変化である「情報化革命」がその底流に流れています。
つまり、現代社会とは、色々な情報が世の中の隅々にいきわたったか故に、社会の構成員や社会の一定部分(パーツ)において、極めて広い多様性(Diversity)をもった有機的な社会構造に好むと好まざるとに係わらずなってしまったということです。

一定の同じ品質の物を大量に生産し、消費者も皆と同じようなものを所有することによって満足を得ることができた、高度経済成長期においては、社長の大号令の元、 一つに設定された目標に向かって全員が一丸となって進んでいける組織が優位に立てました。

 しかしながら、一人一人のニーズが高まり、音楽におけるメガヒットなどが生まれなくなったような状況を無視して同じ価値観を提供する 方法論をとっていては今日うまくいくはずもないのです。

 マスに対して発信したとしても、反応してくるのはその一部でしかなくなった現代社会において、テレビなどの代表的なマスメディアが駄目になっていくのもそれは当然の流れでしょう。




 僕が今まで論じてきた「官僚組織」的構造を他の言い方に平たく言い換えると、あらゆるピラミッド構造をしているものが、自分の構造の重みに耐えかねて瓦解し始めているというのが現代社会であるだろうと思うのです。

 ピラミッドの底辺にある一つ一つの石は、まず均一である必要があるわけです。

霞ヶ関が、日本全国を支配する(というと語弊があるかしら?・ ならば指導するといいかえましょう)際に、各都道府県は均一な礎石であったほうが管理の面で都合がよく、また多くの国民の側からしても自分のところが他の都道府県と同じ扱いをされることを望んできた構造は、明治以降、中央集権国家が出来上がり官僚制が出来上がってから、太平洋戦争を経てなおも変わることなく支持されてきた社会構造なのです。


 ほとんどすべての都道府県には国立大学が必要だったし、空港も必要、高速道路や、ダム、救急車の通れる道路、更には銀行でさえそれぞれの県にそれぞれの物がなくてはならないと考えることが、常識であったわけです。

 今回 国土交通省が全国のダムについて無駄に切り込む作業をはじめたことを皮切りに、地方空港の整理を匂わす方向に持ってきています。
 ここで国民の意識が、一気に 同じように47都道府県に平等あるべきであると思われていた他のあらゆる組織や施設、事業体などが、実際にそれら物が必要なのかであるかどうかや、その存在そのものの意義などについて、ほとんど初めて議論される状態に近くなっていくと思われます。


 しかし、官僚組織でない組織の一員となることは大変です。
従業員のすべてが経営者の感覚で働き始めなければならないのですから。

 日本の中小企業が、大企業の輸出企業の下請けを続けてきて、海外での販売戦略などを気にしないで、ものづくりに集中してこれた時代は、ある意味で非常に幸せな時代であったのでしょう。

 まさにこのピラミッド構造にずっぽりと嵌っている中小企業が独自に海外に出て行って顧客を探しマーケティングをはじめようとしても、まず言葉の問題などもあるわけですし、さらにこれらの野心的な企業の社長は、頼み込んで仕事をもらってくる営業ではなく、顧客を開拓するという極めて大変な営業努力をしなくてはならなくなるわけなのでしょうね・・・


この意味において、硬直した企業でなければすべてハッピーであると考えるのは幻想です。



長くなりましたが最後に視点を変えて

哲学における形而上学的な体系がまさに このピラミッド構造であって、そういったものの考え方の基本構造自体がそのままの形では、維持不能であることが判り、その代替的な思想活動が始まったのは西洋史における、近代が終わり現代になりかけての頃までさかのぼるといわれています。
 そのあと、色々な形で思想自体が練り直されて、日本である程度の今の形が出来上がり、庶民レベルで大きくそういった話が意識的にされはじめたのが 1980年代後半のバブル期にあったニューアカデミズムの流れに沿った ポストモダンとかポスト構造主義といったものが流行った頃であるとおもいます。

 そういった思考実験によって当事予想されていた状況が、直近のインターネットの爆発的普及によって、情報の非対称性が大幅に解消されたことにより、あらゆるピラミッド構造をもつものが、現実問題として維持できなくなって、ついに大修繕が必要になったというのがまさに今おきていることではないのかと思っているのです。

 こうなってしまったのは、誰が悪いとか、誰かを排除して元に戻せばきちんと片が付くといった類の問題ではなく、完璧に不可逆な構造変化にともなう流れとして昨今の動きを捕らえていかないとあらゆる分野で確実に誤りに陥ることでしょう。

またそれすなわち、大きなチャンスであることも事実として受け止めなければならないと思います。



PS 

もっとも非対称性が解消されたからといて全体が「真理」とか「真実」に近づいたかというと単純にそのようにはなっていないと個人的には思います。
 むしろ現状において人類は、ますます混沌(カオス)のなかに投げ込まれたのではないかと思う今日この頃です。
2件のコメントがあります
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まなみさん  どうもです。

今日というわけではありません
構造的な変化で長く続くものと思われますね。
(退会済み)
こんにちは

今日の狙い目は公共投資株でない株かな
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