金融緩和の袋小路に迷い込んだEU 4/4

著者:矢口 新
投稿:2016/09/05 12:45

EUの問題児、アイルランド

アイルランドの失業率はスペインなどに比べてずっと良い。これはアイルランドがユーロの掟破りをしたからだ。ユーロは将来の財政統一に向けて、財政赤字幅にGDP比3%以内という許容制限を設けている。ところが、アイルランドの財政赤字は一時30%以上にまで拡大する。景気後退に対して、大規模な財政出動を行ったからだ。他のユーロ圏諸国も行ったが、アイルランドの思い切った規模の政策が、経済の立ち直りを速めた。

参照グラフ:独愛英の財政収支
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 8月30日、EUの反トラスト当局は、アイルランドの、アップル社に対する課税優遇措置(sweetheart tax deal)が違法な政府補助にあたるとし、アップルに対し最大130億ユーロの追徴税をアイルランドに納付するよう命じた。アップルとアイランド政府は共に不正を否定。同社への優遇措置で合意したこともなかったとして、欧州委員会の決定は受け入れられないとの見解を表明。控訴の手続きをとる方針を示した。

 130億ユーロという額は、アップルの手元資金の約6%に相当する。また、2015年のアイルランドの法人税収の2倍強で、国民1人当たり約2800ユーロの収入に相当する。同相は追徴課税を行うべきだと主張する野党議員から集中砲火を浴びたという。

 とはいえ、アイルランドはグローバル企業の誘致を国策としており、そのために法人税制を低く抑えている。在アイルランド米国商工会議所によれば、アップルや、グーグル、フェイスブックを含め、米企業700社強がアイルランドに子会社を置いており、従業員総数は14万人に達するという。

 アイルランドは2010年に、国際支援を求めざるを得なくなったが、その時でさえ税制改革を求める圧力に抵抗した。ヌーナン財務相は公共放送RTEとの30日のインタビューで、この問題で争わなければ将来の世代が打撃を受けることになるだろうと述べた。一時的に2年分の法人税収を得ても、最大14万人の雇用を危険に曝すわけにはいかないとの見解だ。

 EU(欧州連合)の政策執行機関をEC(欧州委員会)と呼ぶ。ウィキペディアによれば、ECでは以下の部門で約2万5000人が働いている。そして、参加国の政府を通じて、参加国の国民、企業を「欧州統一」へと導いている。EUがなくなれば、彼らの多くは失職する。どちらも本気だ。

政策部門
予算総局
農業・農村開発総局
気候行動総局
競争総局
経済・金融総局
教育・文化総局
雇用・社会問題・一体性総局
エネルギー総局
企業・産業総局
環境総局
移動・運輸総局
漁業・海事総局
保健・消費者保護総局
情報社会・メディア総局
域内市場・サービス総局
司法総局
内務総局
地域政策総局
研究・イノベーション総局
税制・関税同盟総局

対外関係部門
欧州援助協力局
拡大総局
人道援助総局
貿易総局

対内サービス部門
欧州政策諮問部局
欧州委員会情報保護官
人事・保安総局
情報総局
インフラ・ロジスティックス局
内部監査総局
通訳総局
法務局
総務・給与総局
翻訳総局

総合サービス部門
欧州不正対策局(OLAF)
統計局(ユーロスタット)
コミュニケーション総局
出版局
事務総局


規制強化で、殺されつつある世界の市場主義経済

 EUが米とすすめてきた自由貿易協定の話し合いが破談した。ドイツのガブリエル経済・エネルギー担当大臣兼副首相は、自由貿易は大小に関わらずドイツの輸出業者の恩恵となるので支持してきたが、「どんな代償を払ってでも」やらねばならないというものではないと述べた。グローバリゼーションは、ここでも一歩後退した。

 ブレグジットは、国民国家による孤立主義と、自由主義の闘いだと見なす人たちがいる。民主主義の擁護者を自任していたはずの英文メディアでさえ、ブレグジットを行き過ぎた民主主義(too much democracy)と、批判する記事が目立った。

 とはいえ、主義はしばしば事の本質を覆い隠すのに便利な「建前」だ。例えば、帝政ロシアを倒した労働エリートは、労働貴族となった。中国や北朝鮮では下剋上のままに新体制が固定化され、新権力が世襲されている。また、民主主義の擁護者を自任する米国は、エジプトに軍事援助を続けている。その軍は、アラブの春の民主化運動で成立した、国民が選んだエジプト政府を、軍事クーデターで転覆させた。シリアでは反政府軍を支援し、政府軍(ロシアが支援)の抵抗にあって泥沼化した。ここにあるものは「実利」だけだ。世の中の実態は、理想よりも実利で動いている。実利からかけ離れた理想は行き詰る。その実利で、最も大きなものは「経済」だ。

 市場経済と対立する概念として、計画経済が挙げられる。計画経済とは、政府のプランに基づく経済だ。一方の市場経済は、個々の企業、自営業などのプランに基づく経済を政府が監督、規制する。これはEU内では、ECのプランに基づく経済と、個々の国々のプランに基づく経済とも言い換えられる。スペインなどでは個々の地方政府も独自のプランを持っていて、上部政府と軋轢を抱えている。

 「船頭多くして船山に上る」。船頭は1人の方が、あるいは少人数の方が効率的だ。一方で、少数の指導者に権限が集中すると、隅々にまで目が行き渡らずに、不公平が生じる。また、権力に近いものに腐敗が生じる。最悪なのは、その船頭に十分な能力がないと、たった1人の間違いで、全員が遭難することだ。

 多様性を否定すると、遭難する時も効率的となる。計画経済とは超大型船に国民が全員で乗り込むこと。市場経済とは、大小さまざまな船に、大人数、少人数で乗り込み、船団を組みながらも、個々の船にはそれぞれ船頭がいるようなものだ。そしてそれぞれの船長は、それぞれの船の乗員の命に責任を負っている。

 市場は多くの人々が売り買いする場だ。より多くの人々が様々なニーズや意欲を持ち込むことで、市場はより良く機能し、市場価格は安定する。市場は多様性を尊び、多様性は市場を機能させる。

 私は民主主義もまた、多様性を擁護するものだと思っていた。ブレグジットは民主主義であり、その危機だとは捉えていなかった。世界国家、あるいはグローバリゼーションの理想は、そういった多様性を包み込み、尊ぶことだった。だからこそ、お互いを隔てる国家の壁さえなくなれば、人、モノ、資金の移動が容易になり、市場が効率化すると考えられた。

 ここでの問題は、では誰が世界国家を、またその前段階であるブロック経済圏国家を、現実的に管理、運営するかだ。無政府ということは、少なくともどこかの政府が主導する限り、あり得ない。EUの政策執行機関はECだ。

 世界国家、あるいはグローバリゼーションの理想のもとに、現実に起きていることは管理の強化だ。これも当然の帰結かも知れない。EUが欧州戦国時代から、欧州天下統一への試みだとすれば、豊臣、徳川両政権が行ったような管理の強化が避けられないともいえる。豊臣、徳川両政権は基本的には多様性を否定し、市場機能を限定した。国家間の戦争こそなくなったが、必ずしも平和ではなく、経済は停滞し、人口も増えなかった。EU政府も個々の国々から通貨と金融政策を取り上げ、財政政策に縛りを入れることで、多様性を否定し、管理を強化して、市場機能を限定した。そして、働き方や生き方まで、事実上、左右するようになっている。

 グローバリゼーションは、日本でも多様性を殺しつつある。個人商店の個性はなくなり、コンビニ、ファーストフード、チェーン店、どの地方へいっても画一化されつつある。ここでも、働き方や生き方まで、事実上、左右されている。

 今の世界で起きているのは、市場主義経済が機能していないのではなく、国際機関や超国家、国家による管理強化で、市場経済が殺されつつあることだ。大きな政府と、企業の集約によって、多様性が否定され、市場機能は限定され、格差拡大、富の偏在が進行しているのだ。

 富の偏在が世界を不況に導いているのは明らかだ。1人の長者が毎日自動車を買っても、年間たかだか365台しか売れない。一方、1億人の一般人が10年に1台買えば、年間1000万台売れるのだ。


金融緩和の袋小路に迷い込んだEU

 米国のサブプライムショック、その約1年後のリーマンショックが改めて証明したのが、金融政策は極めて効果的だということだ。FRBによる金融緩和で、米国の雇用市場や住宅市場は完全回復した。ECBによる金融引き締めで、ドイツのインフレは未然に収まり、金融緩和で雇用市場は完全回復した。また、他のユーロ圏諸国も、ECBが本格緩和を始めてからは、立ち直りの兆候が見られている。BOEの緩和政策では、英国には住宅バブル復活の兆候さえ見られていた。

 一方で、過度な緩和政策の弊害も顕著になってきた。事実上の政府支援で、ゾンビ企業が生きても死んでもいない状態で生産やサービスを続けているため、デフレ環境が深化している。

 また、銀行は従来からの貸出しビジネスからの収益が望めないために、過剰なリスクを取り続けている。それが裏目に出たドイツ銀行は、世界の金融システムを脅かすリスクが最大だと指摘され、イタリア3位の銀行モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナは、EU当局のストレステストに不合格となった。同行は7月29日に、最大50億ユーロの増資をめざすと発表した。

 モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナは1472年に設立された世界最古の銀行だ。同行の不良債権比率は2015年末時点で41%に達している。同行は欧州銀行監督機構から、今後3年間で100億ユーロ以上の不良債権削減を求められている。同行に限らず、このところ何百年も続いて来たビジネス・モデルの崩壊を、しばしば耳にするようになってきた。

 金融とは、資金を融通し合うこと。緩和政策とは、資金を余ったところから、足りないところに誘導することだ。余資を持つ者は運用益を得、資金を必要とするものは、資金を活用する。資金が流れることにより、利息を得た資金提供者の購買力が向上する一方で、活用者による設備投資や消費を通じて、成長率が高まったり、モノやサービスの値段が上がったりする。

 ここにMMFなどのように、貸し倒れという信用リスクがほとんどなく、すぐにでも資金を引き上げられる環境を提供していれば、余資を預けやすくなる。市場が大きければ借り手も借りやすい。もっとも、貸し借りなので、それなりの金利は授受されるというのが、短期金融市場だった。

 マイナス金利政策の継続で短期金融市場が崩壊し、金庫が売れている。余資を銀行、金融市場に出しても金利が得られず、メリットよりもコストやリスクの方が大きくなったので、余資を持つ者が資金を抱え込んでいる。当局が、資金を融通し合う市場を否定しているからだ。異常な金融緩和の継続は銀行だけでなく、年金や保険などの長期資金の運用を困難にさせている。

 管理強化による格差の拡大は、個人だけでなく、国家のレベルにも及んでいる。2007年を境に、独自の経済政策がないユーロ圏諸国では大きく格差が拡大した。EU政府懐疑派が最も多いとされるギリシャは、もはや英国のように、離脱するには遅すぎる可能性あるのだ。政府は多くの負債を抱え、銀行預金は流出、インフラを含む多くの資産は外国資本のものとなった。また、外国で職を見つけられる知識層から順番に、海外に職を求めて出て行った。今、独立しても、これら失ったものを取り戻すには、どれだけの長い時間がかかるか想像もつかない。

 スペインも15歳―24歳の半数以上が失業してから4、5年経っている。この損失を取り返すのは大変なことだ。この世代そのものは取り返せないかもしれない。それでも、まだ体力があるので、ギリシャのようになる前に、英国に倣って、EUを損切りする必要があるのではないか?

 とはいえ、ギリシャもスペインも、金融緩和のおかげで、今は立ち直りの兆しが見えているので、こうした私の見方を、行き過ぎたものだと感じる人も多いと思う。しかし、緩和政策はいつか終わるのだ。

 マイナス金利政策を続ければ、正常な形では資金が流れず、ゾンビ企業だけが存続する。銀行は金融ビジネスを継続できずに、投機的になる。年金や保険などの長期投資家は、国債利回りという安全かつ安定した運用先を失い、投機的になる。どちらも投機のアマチュアなので、経営が不安定となる。そして、随所で格差だけが拡大し、企業の集約が進行する。

 もはや、金融緩和は自由主義経済の重荷となってきた。しかし、ここで金融緩和を終えると、格差の負け組となったところは、高コストに耐えられなくなる。

 マイナス金利政策を続けているユーロ圏、EUは機能していない。私は、英国がユーロに加わらなかったことや、行き詰まりが明らかになってきたEUを損失覚悟で離れたことを、「引き返す勇気」だと評価している。また、自国民の運命をECに委ねなかったことが、孤立主義だとか、自由主義、民主主義に反しているとは見なしていない。英国の船頭が、英国人であって、何が悪い?

 日本? 今回は話題にする必要もないだろう。
 

配信元: みんかぶ株式コラム