Lawrence Lindsey
私はロンドンで為替のプロップディーラーとして勤めていた1996年に、当時のセントルイス連銀総裁(後のブッシュ前大統領経済諮問)ローレンス・リンゼーが英フィナンシャル・タイムズ紙に寄稿した小論文を読み、ユーロは成立しないと考えた。ところが、英国だけが直前の国民投票で不参加を決めたものの、残る12カ国は通貨統合に向けて進んで行った。
リンゼーによれば、米ドルがユーロ圏より広大なアメリカ合衆国をカバーできる理由は、労働市場の流動性と自動的な財政資金の移動配分にあるという。
米国国内では、ある州が不況に至ると、何10万人単位、場合によっては百万人単位で労働力の大移動が起きるという。農場主や牧場主などの大地主は例外だろうが、一般のアメリカ人は日本人が想像する以上に移動する人々だ。購入住宅が値上がりすると売却して転居する。より良い仕事が見つかると、何百マイルも移動する。また、失業や自己破産などでその地に居続ける理由が乏しくなった時には、新天地を求めて旅立つDNAを持っている、パイオニアの国なのだ。移動にまつわるアメリカン・ミュージックの名曲は、今思い出せるだけでも、Red River Valley, 500 Miles, Blue Bayou, By The Time I Get To Phoenix, Born To Be Wild, Helpless, Love Me Two Times, On The Road Again, Turn On Your Receiver, The Dock Of The Bay などなど、枚挙に暇がない。
また、リンゼーによれば、歳入が落ち込んだ州には、連邦政府から財政資金が自動的、優先的に多く配分され、反対に歳入が増えた州には、連邦政府からの財政資金が少なく配分されることになっている。リンゼーは、この自動的というところがこのシステムのキーだという。
今となってはその昔、米国やユーロ圏よりももっと広大な地域をカバーしていた通貨があった。ソ連のルーブルだ。ソ連は計画経済の国で、国家が財政資金も労働力の移動も一括管理していた。重点地区には財政資金を多く割り当てて公共投資を行い、そのための労働力は強制移動させることも厭わなかった。第2次大戦後の5、6年間は、日本人捕虜も強制労働に従事した。私の伯父は1950年に、シベリアから帰国した。
変動相場制では通貨変動が自動的に行なっている、各地域の経済成長の差異を調整する機能を、旧ソビエト連邦内ではルーブルが、アメリカ合衆国内では米ドルという単一通貨が、変動しないために、こういった労働力の移動と財政資金の移動配分の変動が肩代わりしているのだ。
ところが、現在のユーロにはこのどちらもない。言語や、文化の壁が、労働者のここまでの自由な移動を阻んでいる。どんなに価値のある専門職でも、言葉ができないために、専門職としての扱いが得られないのだ。また、完全管理で労働力を半ば強制的に移動、または一箇所に固定させるシステムも存在しない。
財政面では、財政資金を例えばドイツからギリシャに自動的に移動配分するシステムなど存在せず、歳入の増えた国から、減った国への国境を超えた財政資金の配分は行われない。それどころか、健全財政を保つために各国にStability Pact (安定協定。各国は財政赤字を一定幅に抑える義務を負っている。罰則もある)と呼ばれる大きなたがが填められている。これにより、景気が落ち込んだ国は公共投資や財政出動を行うことができず、正反対の緊縮財政により更に景気が悪化することになるのだ。
実現性のない夢
欧州債務問題ではIMFやワールドバンクの支援を巻き込み、EU統合に向けて世界中で大掛かりに取り組んでいるにも関わらず、夢が実現しそうにないのは、実はごく単純な理由だ。
金融政策を統一しながら、財政政策を個別に行っているからだ。財政が個別のままでは、ユーロ圏での銀行破綻に備えるという「ユーロ圏全域を対象とする預金保険とユーロ圏レベルでの銀行破綻処理制度」なども実現化が難しい。
例えば、大震災後の日本は、復興支援として金融、財政の両面から梃入れを行った。復興交付金のおかげで、資金配分における政治的な優先順位や、根本的な復興プランに欠けていても、資金という「力技」だけでそれなりの復興が見られた。
ここで、自然災害被災地域の景気が悪化し、税収減となり、財政赤字が膨らんでいる時に、被災各県に緊縮財政、公務員削減、公共投資の削減を強いたとすればどうだろう。一律の金融政策の元、同一の為替レートで、弱った地域に制裁的な緊縮財政を強いたなら、景気が更に悪化することは疑いない。
EU政府がギリシャに行ったことをご記憶だろうか? ギリシャはまさに緊縮財政、公務員削減、公共投資の削減を強いられ、資金確保のために空港や港湾などインフラ整備の民営化=売却を強いられた。買ったのは主にドイツと中国だ。日本政府が被災地にそれを行わないのは、各県別個でなく、統一された日本国の財政、社会保障制度を持っているからだ。
ユーロが統一通貨として成功する必須の条件として、リンゼーが指摘したように、通貨・金融政策の統一だけでなく、財政の速やかなる統一が必要だ。端的に言えば、ドイツの財布と、ギリシャの財布を、同じものとすることで、個々の成長率やインフレ率に差異があっても、通貨レートや金利の統一を維持することが可能となるのだ。
そのことはつまり、金持ち国が損をしている「感じ」となる。ドイツ人はギリシャ支援を損だと感じている。一方で、ギリシャがユーロ圏にいてくれたおかげで、ユーロ安、マイナス利回り、資金流入などで、ドイツは東西統一後の落ち込みから立ち直れた。通貨・金融政策の主導権を握った効果は言うまでもない。ドイツはユーロ導入で損したどころか、得をした、ほとんど唯一の国なのだ。失業率の数値が語ってくれるように、数値は心情よりも冷静だ。
2000年の通貨・金融政策の統一後は、財政、年金などの社会保障制度の統一も行われるはずだった。そのための財政赤字容認幅の設定であり、制裁的な緊縮財政だった。しかし今になって、財政、年金などの社会保障制度の統一に強硬に反対する国が出てきた。ドイツだ。(金融政策を握ったおかげで)1人勝ちし、国内での負担が減ったドイツは、もはやギリシャや他の「怠け者の国」のために負担を増やしたくないと考えている。ドイツ政府がEU諸国との財政、年金などの社会保障制度の統一に動けば、次に国民投票でExitしかねないのは、ドイツかもしれないのだ。
EU欧州委員会は2016年7月7日、スペインとポルトガルが財政赤字制限に違反したとして、制裁を科すよう勧告した。欧州委員会のドムブロフスキス副委員長は、「この2国は過剰財政赤字の是正に向かう道筋から逸脱し、財政赤字目標を継続して達成できていない」と指摘し、「高水準にある財政赤字や債務を減らすことが、両国の持続的な経済成長に向けた前提条件となる」と続けたという。緊縮財政は、EU統合というEU政府のためなのだが、例外なく「貴国のため」という表現がなされる。これは、IMFや世銀などの国際機関も同じだ。
EUは将来の統合に向けて、各年度の財政赤字をGDP比3%未満に抑える限度枠を設けており、財政再建への取り組みが不十分なユーロ圏加盟国に対してはGDPの0.2%までの罰金を科すことができる。EU財務相理事会が同意すれば、この財政ルールに基づき罰金などの制裁を発動する初の事例になる。EUではドイツやオランダ、フィンランドなどが財政規律を重視する一方、イタリアなど南欧諸国が景気に配慮した柔軟な運用を要請している。
8月9日になって、2、3カ月以内に再建案を提出することを条件に、スペインには1年間の、ポルトガルには2年間の猶予が与えられたが、いずれにせよこれは財政引き締めを強いられていることを意味する。
欧州が1つの国になると、言うまでもないが、国家予算は1つになる。出身国別に国民に階層でも設けない限り、年金を含む社会保障制度も1つになる。これを嫌がっているのがドイツ人だ。一方で、現状のEU政府に最も懐疑的なのが経済苦境時に緊縮財政や資産売却を強いられ、ユーロ圏内では通貨安の恩恵も得られない多重債務のギリシャ人と、EU政府内で主導権を持てないフランス人だ。
欧州統合の夢は、その発案者たちですら、もはや本当には信じているとは思えない。ただ、引き返せないだけだ。それを、相場の世界に長くいた私は、ナンピン買いに似ていると見なしている。ナンピン買いとは、相場観の間違いを認めようとせずに、当初のプランを守って、資金をつぎ込み続けることだ。これは多くの場合に破滅に至る悪手だ。プランがうまく機能していないと判断できたなら、損失を受け入れてでも、引き返すしかない。つまり、ブレグジットとは、英国によるEU損切りだったのだ。
次回のトピック、「割安となった英国資産」、「規制強化で、殺されつつある世界の市場主義経済」、「金融緩和の袋小路に迷い込んだEU」に続く。
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