赴くままになんとなく視線を書棚へ向ける。
そして、なんとなく気にとった書籍を、
これまたなんとなく手にして、なんとなく買う。
フラフラと彷徨いながら、タイトルだけ見ているような買い方。
ほんの10分くらいしか、書店にいないと思う。
新聞書評や広告を見て買うのとは真逆な方法なのだけれど、
こんな方法でもオモロイ書籍に出会える確率はそこそこ大きいから、
不思議だ。
今までにも、
「1Q84」とか、「光」、「二流小説家」、などなど、
この方法で読んできた。
桜庭一樹の作品は、
なーんとなく気になってネット検索し、
気がついたら、奴の作品はほとんど読み尽くした。
こうして、これら小説家軍団の陰謀が、
オイラに発覚したのだった。
まぁ、陰謀だとしたら、それは人間が目論んだモノなのだから、
さして不思議な現象ではない。条件が揃えば、ない話ではない。
けれど、既に他界してしまった三島の作品もとなると、そーはいかない。
不思議を通り越して、これはもう、オイラには恐怖でしかない。
当初からオイラは、「小説なんて嫌いだ」と公言していた。
なのに、無意識に(?)、関連作品を読み尽くしていたという不思議。
「なんとなく」という感覚の起源、
それは意識の世界なのだろうか、それとも無意識の世界なのだろうか。
オイラは、それは無意識の世界から由来した感覚だと感じている。
何モノかに、読まされているっていう感覚。
*
作家たちのモノする小説作法もの。
小説の書き方がわからないオイラは、しばしばこうした書籍に目を通してきた。
★「小説作法」
丹羽文雄著 講談社文芸文庫 2017.1.8.第一刷
表題の件、著者は書籍の中で明言している。
「はみ出したリアリズム」という作風をめざしていたという著者は、
リアルに書きたいがために、実在する人物たちを小説モデルとして
片っ端から採用していったらしい。
もちろん、実際にあった出来事を丸ごと採用するのではなく
(そうしたらノンフィクションになってしまう)、
その出来事や人物を材料として、作品の中に組み込んでいくという手法。
また、会話についての話では、
初期の頃、著者は会話を妙に恐れていたという。
極力会話を押さえ、地の部分を強化して書いていたという。
(これは石川達三の考え方と同じ)
けれども、経験を積み重ねているうちに、
そうした拘泥がなくなっていき、会話の魅力に気がついたという。
こういう、著者の正直な小説観が、初心者の参考になると思われる。
参考として、著者の作品二点、「女靴」と「媒体」が終盤に収められている。
色々と、初心者に気づきを与えてくれる書籍なのであった。