元来ヤクザ気質で、
暴力が向こうから自然と近寄ってくるようなタイプの主人公テオ。
とある事件がきっかけで、傷害事件を起こし刑務所に入るが、
真面目に刑を勤め、刑期短縮して出所する。
しかし、執念深いテオは、
傷害してヨイヨイになっている相手の様子を探りに行く。
幼少からの恨み、傷害することになった元凶の恨み。
そこから、事件は動きだしていく。
★「ささやかな手記」
サンドリーヌ・コレット著 早川書房 2016.6.15発行
オイラが読んでまず目に止まったのは。
*
刑務所で暮らしていた九ヶ月、俺もかつては”ゾンゾン”と呼んでいた。
だがあの場所を、そんな可愛い名前で呼びならわすことはもうできない。
*
刑務所という活字には、「ゾンゾン」とルビが振ってある。
ネットで調べると、1998年に「ZonZon(刑務所)」という映画があるという。
フランスのあまり知られざる俗語らしい。
デイヴィッド・ゴードンは「二流小説家」の冒頭で、
「シンシン刑務所」と数回書いている。
何か関係があるのだろうかと、不審に思った。
*
ところで、この小説。
中盤まで読み進めていくと、恐らく読者はありきたりなラストシーンを
あらかた想像すると思う。
それに、なんだこんなのよくある普通の小説じゃないか、とも思っているはずだ。
ところが、この作品の見事なのは、
そんな読者を裏切るラストシーン。
このラストシーンで、ほとんどの読者はハマるのだともう。
そして、この話は、実は普遍的な話だと気がつく。
生きていれば誰にだって心の奥底に、
ちぎれてボロボロになっている己の魂の破片がある。
その破片はトラウマになって、
その持ち主の行動を決定していく要因になる。
容易なことでは、そのトラウマを解消することができない。
そんな心理精神的な作用を、読者に想起させる作品だ。
この手記を書いているのは、テオを診察している精神科医師。
でも、この精神科医師が診察しているのはテオではなく、
実は、読者であるあなたなのかもしれない。
2件のコメントがあります
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オモロ過ぎるコメントありがとうございます。
剣道については、詩人の高橋氏も同様なことを感じていたようです。
また、歩行が哲学やヒラメキによいのは、
もはや定番みたいですね。
オイラは伏見稲荷に行ったあと、京都を散々歩いていて、
コンビニで「期限切れのセレンディピティ」に遭遇しました。
神社へ参拝 + 歩行 = セレンディピティ
も起こるかもしれないですね。
最後の運動中の思考について。
おっしゃるとおりな可能性が高いと思いますが、
プロ野球のバッターなんかは、
相手投手の配球を読まないといけなかったりするので、
その兼ね合いが難しいですね。
あるいはあの野村さんがしていたように、
キャッチャーからささやかれたりなんかすると、
(バッターへの思考の注入)
バッターはもうダメポなのでしょうね。
SHINちゃん。こんにちは。
おっ!おもしろそうな小説。やっぱ、この手の心理主義の小説は、フランスものに限るのかな。
ところで、話をもどして、すみません。
人が、コップをとる動作の脳科学の観察では、
①自分の意志で、指を動かそうと思った時刻。
②脳が、運動の指令信号を発した時刻。
③実際、指が動いた時刻。
通常、①→②→③と思えるけど、事実は、②→①→③だったのか。
これは、ボクにも、いはばパラダイムシフトだったよ。
これを文學を用いて説明するなら、三島由紀夫。
三島は、38歳で剣道始めて、あっと言う間に剣道5段。・・・・・・だけど、これは、まがいもの。
三島の通った警視庁の道場では、『あんなヘタな奴は、見たことない』と陰口が、ささやかれていたらしい。
また同じ文士で、剣道家で、三島と実地に道場で立ち会った立原正秋に言わせると「腐った剣を使っている」とのこと。
これは、なぁ、同じ運動音痴のボクには、よくわかる。
①→②→③組なんだな、三島は。
もしくは、①が強すぎる。
②→①→③が、運動・行為の実相なら、思考・思弁は、無いか少ないほうが良い。①なりといえども、時間がかかる。①が強いと、③が遅れる。これをして、運動神経が鈍いという。
むかし、アリストテレスは、人間の思索に最も適した状態は、歩行だと言った。よって、アリストテレス派を「逍遥学派」といったらしいが、アリストテレス師が疾走しだしたら、思索・思弁は、打ち切り中止。
運動中に、思量・思弁するのは、いはばブレーキとアクセルを一緒に踏み込むようなもの。
武道・スポーツや作業中は、哲学者はやめよう。拝