大江:ヨーロッパの詩の歴史を見ていると、マラルメにしてもヴァレリーにしても、一つのタイプと
して、観察と分析の合体というように思います。開高さんは、たとえば湯麺がおいしくて、炒
麺はだめだという。「これが何故なのか、これから日をかけて観察と分析にふけりたいと思っ
ている。」開高さんは観察と分析ということをしようとした。今どきの人には少ないですよ。
それがプラスの面。それから、反対意見もあるでしょうけど、開高さんは、小説の物語をつく
る才能がなかった人じゃないかと思う。
古井:際立ってあった人とは思えません。
大江:全然ないとはもちろん言いませんが、観察の力、分析の力、文章をカラフルに書く力に比べる
と、嘘の物語をつくるという能力においてすぐれているとは言えなかった。それが、彼が一
生、小説が書けないと言ってた唯一の理由なんです。僕は、それが不思議。話してみると、い
つも面白い話をどんどんする人なのに。
古井:気前よく出していくとろこが、結局、物語をつくるのを妨げたんじゃないかしら。抑えながら
抑えながら運んでいくということはなさらなかった人で、気性的にそれを潔しとは思われなか
ったのでしょう。
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★「文学の淵を渡る」
大江健三郎・古井由吉 新潮社 2015.4.25.発行 P.119より抜粋
ヤマザキマリは、読売に書いていた。
完全なフィクションでできている小説って読む気が起こらない。
その底辺に真実が感じられないと、私には読めない。
こういうのは、たしかに各人の有する気性によると思われる。
開高健は、小説の選考委員もやっていた作家だけれども、
「どの小説読んでも、全然おもしろくない」ってな具合に、
いつも不機嫌だったという。
小説の形式をとってはいるが、その土台は全て実体験という作品を書いていたのは、
水上勉だと聞いたことがある。
一方で、じゃあ私小説ならイイのかというと、
それがまた惨憺たる評価が過去になされているという。
はたまた、それこそ完全なフィクションであるファンタジーがブームになったりしたのだし。
養老孟司は、ファンタジーを読むのが大好きだという。
で、ノンフィクションってどーなのよ。
ノンフィクションの場合、タイトル見ると内容がだいたいわかっちゃうところが、つまんない。
小説だと、タイトル見ても、内容がすぐに想像できなかったりするところが、オモロかったりする。
文学って、それからそれを読んでる読者って、なんか不思議。
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抜粋した書籍は対談集なのだが、
オイラが日頃から、よくわからないなぁと感じていた問題を取り上げてくれていて、
オモロかった。
キーワードで書くと、
私小説、詩と小説、随筆と小説、断片、小説で書く過去と現在。
それから、古井芳吉はドイツ語とギリシャ語の翻訳もするという。
しかも、翻訳するのがとても苦しい詩なのだという。
そこから導かれてくる古井の思想がオモロイ。
また、そんな思想を有している古井の書いた小説が、
これまたオモロイのだと、大江は言っていた。
他にも、「百年の短篇小説を読む」という対談では、
有名どころの作家作品がたくさん紹介、評価されていて、
それぞれ読んでみたくなってくる。
岡本かの子と林芙美子、川崎長太郎など、特に。