教授はその朝、まったくいつものようではなかった。
雅彦や佳奈やすま子にいつもの陽気な挨拶もせず、笑顔さえなかった。
読むための新聞も、今朝は持っていない。
さいわい空いていたいつもの席へ、いつになく重おもしい足取りで彼は歩いた。
彼の眼は宙空を見あげるように上を向き、黒眼がふらふらと泳いでいた。
初めて彼を見る人間にとってさえ教授のその様子は異様に見えた。
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★「モナドの領域」
筒井康隆著 新潮社 2015.12.5.発行
この教授、結野楯夫は西洋美術の先生なのだが、
ある存在に憑依されて、不思議な目つきをするようになった。
人と話している時でも、その眼は宙空をふわふわと見つめており、
相手に目を合わせようとはしないのだった。
筒井康隆は若いころ、星新一らとよく茶店でたむろしていたという。
そこで培われたであろう、新一風のユーモアに触れることもできるし、
内容も想像していたよりずっとオモロイので、
あっという間に読めてしまう作品だ。
途中、カラマーゾフの兄弟をパロった裁判風景などあり、
さも冗談であふれたかのような描写が続くのだが、
その内容は、けっこう深いモノで、
神学・哲学・物理学・数学などなど
よほど学んでいないと書けないところが心憎い。
なので、そー簡単には真似できないと思われる。
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この作品を読む前に、
オイラは「婆's バー麗子」にて、
昨日入ってきたばかりだという女の子と話した。
なんでも、美術を専攻していて、
抽象画を手がけているのだという。
ところがこの女の子、
目つきが普通じゃなかった。
オイラと会話していても、
その目を合わせることはなく、
結野教授のように、その視線はふわふわとあっちを向いている。
どーも、オイラの背後を見つめているようだ。
(これも、セレンディピティっていえば、そーなのかも知れない)
オイラは、なんだかこの女の子は霊能者なんじゃなかろうかと思って、
密かにビビりながら会話したのだが。
「人工知能を抽象画で描いて、IBMに売り込め」
などと思いつきを言うと、
けっこう真剣にオモロがってくれるのだが、
その視線は相変わらずオイラの背後を見つめている。
冗談など言ってみて、その子が笑ったとしても、
その視線はやっぱりオイラの背後を見つめている。
けれども、会話の様子や雰囲気からして、馬鹿にされているようには感じない。
芸術家って、変わった人が多いね。