最初耳にしたときには、単調な曲だと思った。
けれど、何度目からか、曲の良さが身に染みてきて、
リピート地獄にはまってしまう。
単調なメロディー一本槍だけれど、
つなぎの部分に変化をもたせて、視聴者をイチコロにする手法。
これは、エリック・クラプトンもしばしば利用する手法だ。
曲調の変化だけでなく、その上に声の魅力も大きいからそうなるのだろう。
★「Every Little Thing」
https://www.youtube.com/watch?v=56P5ecspTUo
「The Best of Chaka Khan Vol.1」では、
おおとりの16曲目に入っている。
紹介した画像は、そのジャケットとは違うChaka Khanが写っていたので選んだ。
このように、若いころの写真があって、しかもそれがなかなか魅力的だと、
ますます曲を気に入ってしまうのは、人情だろう。
(かつて、川上弘美がそれをやっていたのも、それを狙ったものだろう)
若いころの残像が、イマ現在の姿を吹き消してしまう。
ファンならば、そう視ていると考えて不思議ではないと思う。
こういう心理を描いたものとして、
「湯煙スナイパー」を思い出した。
かつて、盛り場で主役だったストリッパーは、
イマ現在、たいへんに容姿が変わってしまった。
けれど観衆は、かつて若かりしころの姿を
ストリッパーに透視して、その魅力に酔いしれるのだ。
TV東京で流れた「湯煙スナイパー」は、
主演が遠藤憲一で、なかなか渋くてオモロイ作品であった。
ここ最近のドラマでは、No.1の出来だと思われる。
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「単調なメロディーだけれど、つなぎで変化をもたせる」
と書いたけれど、
これは昨日書いたミステリ界の閻魔大王のささやきと、通じるものがある。
「普通に書けば平凡な本格ものも、ちょっとプロットをひねるとオモロクなることがある」
これはなにも、ミステリーに限らないだろう。
PS:稲垣吾郎の番組で、「火花」のラストシーンの描写について、
芥川賞ダブル受賞の相棒から、ちょっとしたコメントがあったが、
これには思うところがある。
その描写は、ストレートに書かずに、少し裏側から見たような描写になっている。
これを相棒は、「小説家的な運動神経」と表現していた。
十年、二十年書いていても、それができない作家がいると発言していたが、
少し考えると、それは言いすぎではないかと思われる。
確かに「小説家の運動神経」は存在するのだろうけれど、
こうした手法は、昔あった作詞の世界では当たり前のように使われた手法だ。
阿木燿子の「横須賀ストーリー」でも、このあいだ聴いたところだ。
山口洋子や山口瞳の作詞でも、よく出てくるんだな。
今どきの若いアーティストは、作詞がストレートすぎてつまらない。
そう発言したのは宇崎竜童だったし、エッセーでは北方謙三も書いている。
けれど、同じ手法を小説に使った場合、
失敗をすると、ひどく既視感のある臭いものに変化してしまうリスクがある。
だから、ベテラン作家ほど容易には同じ手法を、使わないのだと思われるぞ。。
PS2:描写でイイのは、村上龍「限りなく透明に近いブルー」だと、思うけどな。