この間、読売書評で宮部みゆきが書いていた。
「ドクター・スリープ」は五つ星の評価だと。
「シャイニング」、「ドクター・スリープ」の順で、オイラは読んでみた。
そして、なにか思いにならない想いが生じてきた。
心の中にわだかまっているその想いを、すぐ言葉にできずにいる。
オモロイのだけれども、何かが、わだかまっている。
そう思って、読み損ねていた直近の日経書評を目にすると、
同じく「ドクター・スリープ」評を、作家の有栖川有栖が書いていた。
「スティーブン・キングは、打てる手をすべて打っている」と。
わだかまりの何かが、少しだけ視えたような気がした。
*
小説というものを読みこなれてくると、読者はわがままになってくる。
映画や音楽も同様だと思う。
オイラの認識している人で、
もっとも我が儘な読者のひとりは、養老孟司だ。
彼ならこう感想を漏らすのではないか?
まーまーだな。これ以上オモロク書けったって、そう簡単じゃないよ。
*
「ドクター・スリープ」の登場人物は、いわゆる静かな小説と比べればかなり多い。
「カラマーゾフの兄弟」でドストエフスキーは、
かなり多い登場人物で読むのを投げ出す読者を想定し、
冒頭第一章をまるまる人物説明に割いたほどだった。
しかし「ドクター・スリープ」ではそんなことはしない。
やがて収斂していく3つのストーリーの中で、
多数の登場人物たちは、むりなく自然に読者の頭に描き出されるはずだ。
「カラマーゾフの兄弟」と、いったい何が違うのか?
スティーブン・キングの削ったシャープな文体と、
読み手を引き込むストーリー展開が、それを可能にしているのは間違いないと思う。
ドストエフスキーの文体は、冗長すぎるのだ。
それと、ロシア人の渾名が、ちょいと難しいのも難点なのだろうか。
*
レイモンド・チャンドラー「リトル・シスター」。
これは解説している村上春樹のいうとおり、失敗作だ。
途中で何カ所か、読者の頭のスクリーンに、
ストーリーがはっきり映写されない部分がある。
村上によればそれは、レイモンド・チャンドラーがその頃にある問題を抱えており、
執筆に集中できなかったからだろうと推測している。
スティーブン・キングの集中度は、いつもと同様、冴え渡っていたのだろう。
どうして「ドクター・スリープ」の方に出さないんだとか。
「シャイニング」に登場してきたホレス・ダーウェントの役割に不満があるとか。
そういうジョークの部分の不満は、オイラのおふざけだけども。