ミレーは畑の畔に腰をおろした「憩える農夫」を書いている。
その平凡などこにでも居るような農夫が、
画面のなかでは何か人を感動させる美しさをもっている。
恐らくモデルになった本当の農夫よりも、絵の中の男の方が何倍も美しいに違いない。
実在の平凡な人物のなかから、特別な美しさを発見し表現したのは美術家ミレーである。
凡庸な人間はその農夫に出会っても、ミレーが発見したような美を見出すことができない。
普通の人には気づかず、見つけだすことのできない美や真実を、
彼らに代わって発見し表現するのがミレーの仕事であった。
そして作家の仕事も全くそれと同じであろう。
聖母昇天は宗教的な伝説であり、架空の物語であった。
どこにも具体的な姿はない。
それに具体的な姿をあたえ、この上もない美しさを以て画布に描いたのがラファエロの仕事であった。
人人はその絵によって、いままでは極めて漠然と思い描いていた彼等の空想が、
はっきりした形をもち、整理され、美化され、そのことに納得し、
その美しい感動が生涯消えないものとして自分に与えられたことを感じたに違いにない。
つまりラファエロは、一般の信者たちが自分では作り出すことの出来なかった具体的な聖母の映像を、
感動的に彼等に与えたのだ。
(創造)という仕事はそういうものであろうと思う。
作家は平凡な話、平凡な日常生活のなかからいくらでも作品の主題を探し出すことができる。
ゴッホがただ一脚の安っぽい椅子を見事に描き出したが如く。
・・・・・・しかし出来上がったものは平凡であってはならない。
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★「経験的小説論」
石川達三 文藝春秋 S45.5.25.第1刷 S47.4.1.第4刷 P.88~89より抜粋
スペイン酒場経由で、森さんから貸してもらった書籍。
石川達三は、第一回芥川賞作家。
内容はとても真面目、かつ初心者には勉強になることだらけだ。
色々な小説論を読んできたのだけれど、
一番最初にこの書籍を読んでいたら、もっと飲み込みが早かったかも知れない。
小説の中での詩的表現について、
短編ならそれも生きようが、長編でそれをびっしりとやったら、とてももたない。
同様なことを、松本清張も書いていた。
初期の夏目漱石作品における、出所不明な語り手について。
恐らくは、彼が中年から小説を書き始めたために、
職業作家が恐れる手法を、なんのてらいもなく使用したことが却って良かったと。
(晩年は、本人が気づいたのか、そうした文体は姿を消したという)
石川達三は、この漱石の文体を盗んで何作か書いてみたという。
また、他人にはわからなかろうが、二十通りの文体を使い分けたという。
会話について。
だらだらと無駄な会話ばっかり書いてはならない。
ここぞという会話だけに絞るべし。
代わりに、地の文で攻めた方が、ずっとイイとか。
それと、往年の作家に対する鋭い評価が、勉強になる。
永井荷風は「墨東綺譚」までで、その後は、荷風のためにも出版すべきではなかったとか。
田山花袋、徳田秋声、志賀直哉なども、バッサリと切られてしまっている。
相性とか好みの問題もあろうが、
ここまで他の作家をバッサリ切ってしまう歯切れの良さは、ちょっと怖い。
こんなオモロイ話が、まだあと半分も残っている。
他にも読みたい書籍が唸っている。
ちょいと、幸福を感じている。
PS:BSのTBS・関口宏の番組で、宇崎竜童が出ていた。
最近の若手歌手の歌う歌詞について、物足りないと言っていた。
実は昨晩紹介した謙三親分のエッセーにも、同じことが書いてあったんだ。
番組で「横須賀ストーリー」の歌詞が流れ、山口洋子と同様、唸らされる部分があった。
阿木燿子の歌詞だ。
やっぱり、プロの作詞家は違うんだなー。。