作家にとって、社会の利益、国家の利益はもちろん考えなくてはならないが、
もっと根本的なところに溯って、私は個人の自由と尊厳とを考えずにはいられない。
社会的ヒューマニズムというような言葉もあるが、
個人についてのヒューマニズムを二の次に置く時には、
その社会はたとい外見的な繁栄の姿を見せようとも、
内情は惨憺たるものであるだろうし、
個人の内心は常に不安定であるに違いない。
私はその実例をソ連や共産中国に於て見出すことができるように思う。
共産主義国家の多くは、その人民に向かってまず国家への奉仕を第一に要求する。
万事ことごとく国家が優先するのだ。
国家にあっての個人であり、個人は国家の奴隷にすぎない。
従って、そのような国家に真の文学は有り得ない。
作家は個人を守る。
個人の自由と尊厳のために闘う。
国家権力は常に人民に向かって国家への奉仕を要求する。
したがって作家はほとんどすべての場合、国家に対して批判的であり、
野党的な立場に立つ。
・・・・・・私はそういう風に信じ、そういう立場を取って来た。
それが私の良心であり、それを間違っていたとは思わない。
そして国家権力は、こうした作家の批判を受けながら、
批判を許さなくてはならない。
それが国家の良心である。
こんな風なことを小説の主題にしたということは、
それ自体が不幸なことであり、
社会民族が不幸な状態に置かれていたということでもある。
私はそのような社会の姿を無縁のこととして見過ごして置くことができなかった。
それは私の性格であり、私流の良心であった。
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★「経験的小説論」
石川達三著 文藝春秋 昭和四十七年四月一日 第四版 P.127より抜粋