小説におけるプライバシー問題など(橋本治)

元祖SHINSHINさん
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(略)金閣寺側から掲載を拒否されたのである。

理由は、私の書いた原稿の中に、三島由紀夫の『金閣寺』が登場するからである。

雑誌掲載の時は、そのことを知らなかったらしい。

しかし、単行本掲載の時点で拒否された。

「三島由紀夫は金閣寺にとってタブーであるから、三島由紀夫がそこにある以上、

 写真の掲載は許可出来ない」ということを、いたって遠回しに言われたと、

私は担当編集者から聞いた。

 

ここからは、私の勝手な推測である。

 

一読すればわかるが、三島由紀夫の『金閣寺』は、現実の金閣寺とはまったく関係がない。

更に言ってしまえば、三島由紀夫の『金閣寺』という小説は、現実に起こった金閣寺の放火炎上事件とさえも関係がない。

 

三島由紀夫にすれば、それは「捨象した」ということにもなるだろうが、

三島由紀夫は、現実に起こった事件の枠組みだけを使って、「自分の小説」を創ったのである。

三島由紀夫にしてみれば、「ここまで現実と違う小説を構築した腕は素晴らしいだろう」

と言いたいようなものではないのか。

それは「芸術の自立」でもある。

 

がしかし、そうなってしまったら、それはなにも金閣寺である必要がない。

犯人の少年にあった「吃音障害」という身的特徴も、

別のものに置き換えられてもいいようなものである。

 

がしかし、三島由紀夫はそれをしない。

三島由紀夫の仕事は、「現実と同じ材料を使って、現実とは全然違うものを作る」だからである。

 

そのようにして、三島由紀夫は、現実から”芸術”を浮上させたかったのだろうが、

しかしそれは、現実の側からすれば、「あまりにも思いやりのない仕打ち」にもなる。

三島由紀夫を「タブー」としてしまう金閣寺側の心理は、

そんなものではないかと、勝手に想像してしまうのである。

 

『宴のあと』は、プライバシー裁判という事態さえ惹き起こした。

私は『宴のあと』をすぐれた小説だとは思うけれども、

これだとて、”題材”にされてしまった人物からすれば、

「道具立ては完全に同じなのに、書かれている事情や心理がまったく別物になっている」

ではなかったのか?

 

そうも思いたくなるというのは、三島由紀夫の書くような心理や主張を持った人間が、

この現実にはそうもいそうもない人間だからである。

 

「いそうな人間を書いてもしょうがない」と言うのは三島由紀夫であるはずだが、

しかし、自分の顔と衣装を勝手に使われて、

自分とはまったく違うものを提出されてしまったら、その当人はどう思うだろう?

 

プライバシー裁判で、三島由紀夫は敗訴した。

その後、原告と被告の間に”和解”が成立したから、

三島由紀夫の『宴のあと』は、今でもまだ読むことができる。

 

しかし私は、三島由紀夫の敗訴は、

三島由紀夫の”現実”に対する態度への懲罰なのではなかろうかと、勝手に邪推しているのである。

(略)

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★「三島由紀夫とはなにものだったのか」

  橋本治著 新潮文庫 629円+税 H17.11.1.発行 P.411~412より抜粋

 

この書籍は、興奮のあまり鼻血が出るほどオモロイ。

抜粋した箇所の他には、太宰治や松本清張との犬猿ぶり、文学座分裂騒動、

東大全共闘との対話などなどエピソード的な逸話が満載なだけではない。

 

「仮面の告白」や「豊饒の海」、「サド公爵夫人」などなど実作品の読解を通じて、

橋本治が、三島由紀夫の心の奥をのぞき込むというスタイルになっている。

その切り込み方は、心理学的なアプローチにみえながら、

実は橋本治独自なものとなっているのもオモロイ。

 

そして、これから小説を書いてみたいという向きに、

この批評が必ず効いてくると思われる点も、心底ユニークなのである。

 

 

      *

 

三島由紀夫が「自分のこと」を書く私小説作家であったことは、ここに明らかである。

三島由紀夫がただの私小説作家と違っていたのは、彼が、

「自分とは関係ない他人」を主人公にする小説を書いても失敗しない作家になっていた

ということだけである。

(同著 P.360)

 

この書籍を読んでから、三島由紀夫の実作品を再読すると、

盗める部分がたくさんあるはずだ。

オイラは心から、ほくそ笑んでいる。

 

 

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