前回書いた語り部の性質について確認するために、
「1Q84」Book3後編に出てくる牛川の章(22と28章)を斜め読みしてみた。
三人称で書かれたこれらの章での語り部には、
前回想像したことだけではなく、
物語の小さな要約機能と、登場人物の意識の代弁機能があるとわかった。
(ふつーに読んでいるだけだと、こんなこと考えないけれど)
前者の「物語の要約」機能については、
デイヴィッド・ロッジは次のようなことを言っている。
「要約ばかりの小説があったとしたら、読むに堪えないだろう」
なので、要約は適度な範囲・頻度でなされないといけない。
後者の「登場人物の意識を代弁」する機能については、
まるで語り部が、ターゲットとなる登場人物の背後霊にでもなったかのように、
ふたりの視点が一致して、かつ語り部が登場人物の意識を代弁している。
一見、「神の視点」のようにも思えたりするが、
きっとこれはそうではなくって、
あくまでも「背後霊の視点」なのだと思った。
背後霊は神ではないので、
取り憑いた人物の意識だけしか、視ることはできないってことなんだろう。
そう解釈してみた。
(背後霊が、物語の全部を知っているわけではない/プロットを立てない作家の場合には)
別件で思ったこととして、
こういった登場人物の意識が、物語のどこまでを把握しているのかという問題。
これに関しては、IT業界でプログラマーの人ならば、
小説の書き方に初見であっても、
飲み込みが異様に早いと想像される。
なぜならば、彼らはプログラムで使用する「変数」の概念を有しているからだ。
「変数」=「登場人物の意識」とすれば、
変数の通用できる範囲がパブリックなのかプライベートなのかによって使い分けられるように、
登場人物の意識も同様に、
その物語のどこまでの真実を知っているのかによって、書き分けることができるからだ。
語り部にしろ、登場人物にしろ、神にしろ、
誰からみても真実なんてことがあるんなら、
それは「パブリックな定数」ってことになるんだろう。
なんとなく、色々なことが少しずつ見えてきたかも知れない。
PS:三人称の書き方でも、一人称風な三人称(?)みたいな書き方も想定される。
(正式な呼び方をオイラは知らない)
例えば、徹底的に牛川の視点だけで描写するような書き方だってあるんだろう。
語り部の視点を、可能な限り抜いたような描写で。
(少しニュアンスが異なるけれど、物語ごと登場人物の視点を交換したのが、
海堂尊の「ジーン・ワルツ」と「マドンナ・ヴェルデ」だ)
PS2:「語り部の機能」って、結局はほとんど「地の文の機能」ってことになるんだね。
たぶん。。
PS3:オイラは桑田の「ピースとハイライト」が、大好きだ。
偶然にも直で視た。傑作じゃっ。