一人称だったら、まだわかりやすいような気がするけれど。
自分の見たり意識していることを、自分でしゃべればいいんだろう。
(このときに、三人称的な表現を避ければいい)
ところが、三人称で語り部を使うようになると、はっきりしないことが出てくる。
大沢在昌が言っていた「神の視点なんかで書きやがったら、速攻で落とすからな」
という部分がそれだ。
語り部として、もっとも普遍的な役割はナレーターだと思う。
このナレーターがどこまでしゃべるのか、その内容によって、
神の視点になってしまうか、そうじゃないのか分かれるって認識でイイのだろうか?
ナレーターである語り部が、
なんでもかんでもお見通し的に、ベラベラしゃべってしまうと御法度ってことでイイのだろうか?
ナレーターは、舞台役者が今どこにいて、どんな天候で、
その場の雰囲気はこんな感じですってことくらいなら、
しゃべっても差し支えないってことなんだろうか?
(あー、起きた事柄を淡々と語るって機能もありそうだ。
この部分で宮部みゆきの「理由」って小説は、満場一致で直木賞だったのかなぁ?
語り部の役割を部分的に、たしか登場するTV記者とかにやらせたんだよね)
舞台役者の心像とかは、語り部ではなくて、
会話や態度で示せればイイってことなんだろうか?
なんとなく、そんな風に想像している。
他によくわからないのは、「視点のぶれ」ってやつだ。
減点対象だっていうので、焦っている。
舞台役者AとBなどなどがいて、さらに語り部の存在があるから難しいんだろう。
ところで、この語り部の立ち位置が、過去の名作であっても混沌とすることがあるらしい。
と、デイヴィッド・ロッジが「小説の技巧」でそれとなく書いている。
試しに、4,000文字の短編(マジック・ノンリアリズム小説?)を三人称で書いてみた。
語り部の情景描写から入るのだけれど、
舞台役者AとBが会話を始め出すと、なんだか心許なくなってくる。
そういえば、語り部の立ち位置が、混沌としているのかも知れない。
が、それが間違っているのか、そーじゃないのかが判らない。
だれか、添削してくれ。。