読む前から、何かが始まっている

元祖SHINSHINさん
元祖SHINSHINさん

(略)ここまでの前提で言えるのは、読書をしたからといって、

それで理解したつもりにならなくてもいいということです。

 

だって絵を見たって、どのように理解したかどうか、なかなかわかりませんよね。

でも「なんとか展」にまた行くでしょう。

セザンヌやカンディンスキーや現代美術を見るって、そういうことです。

 

言葉だって、文章だって、そうなんです。

けれども絵をいろいろ見ているうちには、ピカソの何かが忽然と見えてきたりする。

本もそういうものです。

 

だから読書というのは、読む前に何かが始まっている思った方がいい。

それを読書するときだけを読書とみなしているのが、とんでもないまちがいです。

だいたい、本はわれわれが読む以前から、「読む本」になっているわけですよ。

(以下書籍のP.80より抜粋)

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文脈からはオカルト的なことを著者が言っているわけではないと、わかるのだけれど。

オイラはそれを敢えて、オカルト的な意味合いで考えてみたい。

 

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(略)ぼくはもともと文学的な人間でも哲学的な人間でもなくて、

またとくに行動的な人間でもなくて、自分が体験したことのなかで気になったことを

丹念に敷衍していくタイプです。

昆虫採集型です。

 

だから日記や日記めいたものはずっと書いていまして、

自分の人生は日記のようなものだと思っていたくらいですが、

これって「意識と実景の二重進行」なんですね。

いわば編集的なんです。

 

しかし世の中には、そのことをみごとにあらわしている人はいくらでもいる。

フランス文学にも、むろんそういう作家や詩人がいた。

それがぼくには大学に入る直前ではプルーストであり、コクトーだったんですね。

またパリを描写したリルケだった。

 

(略)そういったものを読んで、「そうかパリを書いて、自分を書いているんだ」

と思ったわけです。

つまり「場所」を書いている。

そういう場所を思考や表現の下敷きにしていると、二重進行が可能になるんだとわかった。

そういうふうに書く方法があるのかと思った。

(同書籍のP.51~53より抜粋)

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小説の描き方として、恵心する。

「ノルウェイの森」なんか、まさにそうだ。

 

そういえば、データベースを利用した期限切れアプリケーションでも、

「場所」を記録するのは、実に重要な作業だ。

「アマゾン」は、この場所を記録する方法を工夫して、

最短距離で商品をピッキングするプログラムを編み出した。

 

今日は触れないけれど、「意識」という概念が顔を出した。

オイラがこのあいだ「モロボシダンの店」に行きたいと思ったのは、

ホントウに自分の意識なのだろうか?

ということを常々感じているので、オイラは今、この「意識」というものにとても興味が湧いている。

 

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(略)音読から黙読への変化は何かもたらしたのですか。

 

このことを最初に指摘したのはミルマン・パリーという文法学者のホメロス詩の研究なんですが、

この見方を広げたのはマーシャル・マクルーハンです。

このとき、このマクルーハンはとても興味深いことを仮設した。

 

それは人類の歴史は音読を忘れて黙読するようになってから、

脳の中に「無意識」を発生させてしまったのではないかというんです。

 

言葉と意識はそれまで身体的につながっていたのに、それが分かれた。

それは黙読するようになってからで、そのため言葉と身体のあいだのどこかに、

今日に言葉でいう無意識のような「変な意識」が介在するようになったというんです。

かなり特異な仮設ですね。

(同書籍P.107~108より抜粋)

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非常にオモロイ見解だ。

 

逆に、斎藤孝は「自伝を読む(筑摩書房)」という著作で、

言葉と身体的なつながりをリズムとしてとらえられるように、

音読をすすめている。

 

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(略)一九四〇年に刊行されたアドラーとドーレンの『本を読む本』に、

シントピカル・リーディングという読書法が紹介されている。

たいへん話題になった。

 

学習読書、点検読書、分析読書の順をへて

シントピカル・リーディングをしてみるといいという指南だ。

二冊以上の本を関連させながら読むという方法で、いわば多読術に当たっている。

 

ただし『本を読む本』の指南はきわめてロジカルで、質問を明確にせよ、主題的関連性を発見せよ、

弁証法的に読めなどといういふうになっている。

つまりサブジェクトを見極めるための説得型あるいはディベート型読書法なのである。

 

ぼくが本書でおススメした多読術は、そういうものではない。

うんと柔らかい。

もっと認知関係的で、かなりパフォーマティブで、プロセス的で、極めて編集的なのだ。

これは、もちろんぼくの体験にもとづいているのだが、

いいかえれば、第一に読書というものを生活体験と連動させ、

第二には本を「意味の市場」のなかに位置づけ、

第三には読書行為を知的な重層作業というふうに捉えたからである。

 

ぼくは、自分が試みてきた経験にもとづいて、

さまざまな読書プロセスの特色を「書き手と読み手と売り手のあいだ」に拡張したわけなのだ。

読前・読中・読後を分断することなくつなげたといってもいい。

(同書籍P.203~204より抜粋)

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★「多読術」

  松岡正剛著 ちくまプリマー新書 800円+税 2009.4.10.初版第一刷 2009.4.20.初版第二刷

 

たいへんにオモロイ著作なのであった。

色々なキーワードや考え方が、オイラの心にひっかかって渦を巻いている。

 

オイラの場合だと、この松岡正剛の考え方をもっとオカルティックに拡張して、

読書について考えてみたいと思っている。

 

二冊以上を関連させて読むということで、

今は、茂木健一郎の著作を読み込んでいるところだ。

 

 

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