10/19(日)、酒乱だった父親の7回忌、苦労人だった祖母の13回忌法要があった。
菩提寺である常光寺には、近所にある白旗神社から移転されてきた弁慶塚があって、
先祖の墓のすぐ裏手にそれはある。
寺内には県指定の樹木があったり、その弁慶塚があったりで、
毎日曜にもなると、観光客なのだろうか多くの人たちが先導されてくる。
その日も午前中から、とても賑やかだった。
先代の他界した住職は、
オイラの出身高校の非常勤教師もしており、
また、その子どもの一人とオイラが中学の同級生であったりと、
並々ならぬ縁がもともとあった。
しかし、跡継ぎとなるはずであった倅に問題があって、
他界した住職は、なんと倅を追放処分にしてしまった。
それは当時、檀家内でもたいへんな問題となった。
そんな中、京都の知恩院から現在の吉田住職が派遣されてきたのだ。
知恩院の開祖は、浄土宗・法然。
この法然は、秦一族系統だとされている書籍を読んだことがある。
法要の読経が終わると、吉田住職の法話となった。
「このあいだ本堂の改修工事のために、小さな倉庫を整理していたら、
先代の住職が好んで読まれていた、岡本かの子の初版本が出てきました。
岡本かの子は、あの岡本太郎の母親です」
その書籍にあったというのが、ブッダの弟子シュリハンドクの話。
その数十行あまりを、吉田住職が朗読してくれた。
そのあとで、シュリハンドクを知っているかと問われたので、
「あー、赤塚不二夫の天才バカボンに出てくる、レレレのおじさんですよね」
と答えたら、えらくウケてしまった。
(伊勢白山道を読み続けてきて、ヨカッタ)
結局、その法話の意義に関しては、いまひとつピンとこなかったのだが。
吉田住職はきっと、初版本が見つかったことの方が嬉しくて、
少しばかり自慢したかったのかもしれない。
「私ももう、常光寺に来て9年が経ちました。
檀家のことがわかるようになるまで、10年はかかると先代から言われております。
ホントウにそのとおりでした。
実は、あなたのお墓の周辺についても調査しておりました。
みんな一族でした。苗字が違っていてもです。
その中に、秦さんがおりますでしょう?」
その話を聞いた瞬間、観光案内の拡声音が聞こえなくなった。
知らなかったのだ、先祖が秦一族と交わっているなんて。
今の今まで、そんなこと知らなかったのだ。
「実は、秦一族について色々と研究をしておりまして・・・」
オイラがやっとそう言うと、吉田住職はキョトンとしていた。
卒塔婆をもって墓に行ってみると、
同じ苗字の一団の中、小さな空間を隔てて左側に「秦」という苗字の墓が、確かにあった。
私小説を書いたら、真っ先に吉田住職に読んでいただこう。
そうしたら、この不思議な話は、きっと知恩院まで届くだろう。
出版することだけが道ではないと、秦さんの墓石の前で思いを巡らせた。
万が一でも出版となれば問題になるであろう「実名」を、
こうしたケースならば遠慮なく利用できる。
オイラの話はそのとき、伝説になるだろう。