── 物語という人間の持ったものは言語そのものと密接につながっていて、
言語を持った瞬間にまで物語に至る道筋がたどれるとしたら、
それは要するに、「非近代」という色が濃くなりますね。
村上 そうです。
僕の場合、物語ということで追求していくと、
ある部分そういうところへ行くことになるんじゃないのかな。
ただその非近代を現代にいま持ち込むというのは、
ある意味で危険を伴うことなんですよね。
下手すれば宗教がかってしまうし。
たとえばヒトラーがやったみたいに
古代ゲルマンの神話体系を持ち込んでくるようなことになってしまうと、
すごくまずいことになります。
だから非近代の中でも、ある程度腑分けしなくちゃいけないわけです。
その腑分けを意図的に取り違えてしまうと、これは危険なことになると思う。
── そこに経験、技術、フィジカルな強さ、すべて求められるということですね。
村上 ええ。
変な言葉を使うと倫理観ですよね。
そういうものを持ち込むことに対する倫理観がなければ、
有効な物語というのは成立し得ないと僕は思う。
倫理観ということ自体が非近代なのかも知れないけれど。
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★「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」
村上春樹著 文春文庫 800円+税
「海辺のカフカを中心に」P.147~148より抜粋
「海辺のカフカ」のキーワードは、
オイラ的に言えば、「神社」、「落雷」、「知事」である。
「アフターダーク」と同様に、オイラのことを知る前に書かれた作品なのであるから、
オイラにとって、これは予言めいた物語となっている。
その後、マエストロ掲示板でのIT・建築談合の実況中継を読んでからの作品だったら、
あの落雷事故は天誅だったという物語にもなったのであろうが、
「海辺のカフカ」の中では、
「落雷に遭って助かった人はどれくらいいるのだろう」という挿入話となって現れる。
村上春樹が、どのくらい政治不信論者なのかは、
「ノルウェーの森」他、色々な書物から察することができようが、
結局のところ、彼の備えている倫理観やら優しさによって、
短絡的な物語になるのを慎重に避けているのがわかる。
上の抜粋を読んで、理解できるとおりだ。
同様な言い回しを、どこか他の書籍でも目にしていたので、
オイラは、挑戦して落選した日経の私小説的な短編小説でも、
落雷事故については、その影響を受けてはっきりと明言するのをはばかった次第だ。
けれども、その落選作を読んでくれた行きつけのスナック・カスタムのマスターの感想は、
「生ぬるい! なんでもっと感情を爆発させないんだ」
というものだった。
そうなのかなぁと思いつつも、
三浦しをんの「光」を読んでみると、
それは間接的な、オイラにとってはそれはそれは見事な復讐話となっており、
この話をマスターに教えて「光」を読んでもらえば、
少しは彼の胸がすくのかも知れないと感じている。
何しろ信之は、黒川親子ともども死に導いていながら、
けっして捕まらないという物語なのだから。
PS:村上春樹は相当に優しい男なのかも知れないが、
三浦しをんは、噂どおり相当に怖い女なのかも知れない・・・・・・。
あわわのわ。。