文庫はおびただしく読んだ。
そのなかでの秀作はボストン・ラテンの『神は銃弾』(文春文庫)。
娘をカルトに誘拐された警官が、麻薬中毒を治療中の女性とともに、
娘を取り返しに行くという設定である。
この女性は以前はこのカルトに属しており、死んだと思われて放置され、
たまたま生き延びてカルトを出ることができた。
だからカルトの内情に詳しいのである。
カルトといっても、ごく小さな規模である。
数人の仲間たちが、メキシコからアメリカにかけて、移動を繰り返すだけなのである。
事件の発端も小さな田舎町で、そこの警察署長と街の金持ちが組んで、
黒人の老婆の土地を取り上げたのが、ことの始まりとなっている。
追求していくうちに事件の全体像がほぐれていくが、
ことの真相はなんともやり場がない。
だからその最終決着は「銃弾」なのである。
読後にすぐ思ったのは、
村上春樹訳の実話『心臓を貫かれて』(文藝春秋)である。
暴力と殺人の因果関係をめぐる物語という意味では、小説も実話もない。
ほとんど同じような雰囲気の話ではないか。
両者はほぼ完全につながってしまった。
文庫ではないが、ジェイムズ・エルロイの『アメリカン・デス・トリップ』(文藝春秋)も、
ケネディ暗殺をめぐる暴力物語である。
ラスヴェガスとモルモン教徒が登場するが、
これも『心臓を貫かれて』と舞台がよく似ている。
カルトとマフィアの違いはあるが、『神は銃弾』もまた同工異曲の暴力物語である。
これを読んでまもなくニューヨークのテロ事件が起こった。
ローマ法王は自体の平和的解決を呼びかけたが、おそらくだれも聞いていないだろう。
テロという暴力はたちまち反テロという暴力を生み出す。
サリン事件に対する日本社会の反応のように、ぬるま湯というわけにはいかないのである。
暴力を作品に描かせたら、アメリカ人に匹敵する国民はないであろう。
暴力は人を惹きつける。
その魅力はどこにあるか。
もともと私的な暴力とは、社会の枠組みの外にある。
だから社会の枠外の行為、すなわち犯罪行為は、ただちに暴力と結びつく。
それが単に力関係であれば、つまり単純に強い方が勝つというのであれば、文学になるわけがない。
お金と同じで、計算にしかならない。
問題はそこではない。
社会の枠外に出たところで、人間が社会関係を追求する動物であることは、避けられない。
そこには子どもがあり、家族愛があり、忠誠があり、友人があり、恋愛がある。
暴力が一見支配するように見える状況下で、
そうしたさまざまな人間性を描くのがアメリカ文学なのである。
ここに挙げたような作品は、文学ではない。要するに大衆文学ではないか。
そう思う人は多いかもしれない。
しかし暴力を主題とする作品は、じつは現代アメリカに固有の文学といっていい。
わたしはそう思う。
アメリカ人はそれを書きたがり、またみごとに描く。
右のように考えれば、それはあるいは当然のことかもしれない。
日本の文学が面白くなくなって久しい。
それは既成社会の枠内でものごとを描こうとするからであろう。
暴力が社会の枠外だということは、
それを書こうとすれば、必然として社会の枠を意識するしかない。
しかも枠外の世界では、まさに「倫理」を考えざるをえない。
倫理とは、もともとそういうものを指す。
現代日本のように、国家公務員の「倫理」法とか、東京大学のような教官「倫理」マニュアルとか、
倫理という言葉に「法」や「マニュアル」が同居する世界では、
じつに倫理に関する感覚はない。
自分の一生は一度しかなく、すべての瞬間にふたたび戻ることはない。
そうした不可逆の時間のなかで、一回限りの決定をするとき、
その根拠となるものが「倫理」である。
定義より、それは法やマニュアルのような、一般的なルールとは折り合わない。
一回限りの事実、それを「決定する」判断に、本来的に一般性はない。
しかしそこにある「ある一般性」をあえて想定するとき、
倫理といいう言葉が成立する。
そうした一回性を描きながら、しかも一般的であるもの、
それがもともと文学なのである。
暴力はいったん発現されてしまえば、不可逆という面が強い。
とくに殺人は、被害者にとって、まさに一回限りの暴力である。
わたしは戦争を憎むが、その理由は殺人の「一般化」にある。
一般化され、正当化された殺人、つまり戦争に倫理はない。
それをなんらかの意味で正当化する、
つまり「正しい」と強弁するのは、奇怪に大きくなったヒトの脳だけであろう。
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★「考える読書」
養老孟司著 双葉新書 870円+税 2014.5.25.第1刷
「アメリカと暴力」(2001.10) P.50~54より抜粋
最初読んだときには、
やっぱりいろいろ読み込んでいる人は、意見が鋭くなるのだと感心したけれど。
でも、よく考えると、
日本だって「忠臣蔵」とか「必殺仕掛け人」とか、
初めて視たときには、オモロかったじゃないか。
それと、アメリカが銃社会であることも、関係しているだろう。
日本で一般人が銃で復讐するとなると、面倒くさい裏手続きが必要になるし。
だからこそ、三浦しをんの「まほろ駅前番外地」では、
拳銃を薬屋のシンちゃんが持ってきたんでしょう、
どっかから。。
などと、ちょいと文句など言いながら、
それでも、日本の小説が最近オモロクないという意見の部分には、
耳を傾ける必要があるのかもしれない。
もしも小説を書くというのなら、頭の片隅に入れておかないといけない。
『心臓を貫かれて』は、読まないといけないかな。
PS:「パンドラの箱」という、EGO-WRAPPIN'の曲が、異様に妙に素晴らしい。
ユーチューブで探したが、残念ながらなかった。
作詞は、ボーカルの中納良恵。
難しげだが危なげのない変調な曲風という強烈な変化球と、「不思議」な歌詞にハマる。
三島由紀夫の「音楽」がドラマになったとしたら、絶対に主題歌だ。
精密に構成された小説と楽曲、そして歌詞の内容もピッタリだ。
EGO-WRAPPIN'、CD全部買うかも。