私の読書論は作者絶対視に対する疑問をはらんでいる。
印刷文化の発達、普及は強い作者、とるにたらない読者を前提にしている。
作品はすべて作者の手によって創り出されるもの。
読者はそれを全面的に受け入れて、読む喜びを受けるものとされてきた。
それに異をたてる読者があっても、その声を伝えるものがない。
読者の立場を示す批評があってもよかったのに、
批評は作者にぬかずき、これをうやまう、神主のようなものになってしまった。
読者は沈黙の享受者であった。その状態は、今もつづいていると言って良い。
外国の文学、著作を読むというきびしい試練を重ねていて、
私の中に、読者としての個性のようなものが芽生えたらしい。
それが、Q・D・リーヴスの本によって、目をさましたのである。
私の考えた読者、それを私は近代読者と呼ぶことにしたが、
受身一方の読者ではなく、作品を賛美するだけの読者でもなく、
自分の個性にもとづいて、解釈を加え、
かすかでも作品の生命に影響を与えることのできるアクティブな読者である。
そういう読者がなければ、作品、書物は、多くの人たちに受け入れられるものにならない。
そういう読者にとって、解釈ということがきわめて大きな意味をもち、
ときとして、作品の運命を左右することもある。
それが近代読者だと考えた。
そのあらましを「近代読者論」(一九六三)にまとめた。
それから半世紀たったが、いまもなお仮説のままになっている。
こまかいところはとにかく、読者が作品にとって、
決定的重要性をもつとする思考はいずれ承認されなくてはならないと考える。
日本だけの問題ではなく、広く世界の文学についてもそう考えられる時代がいずれやってくる。
そう信じている。
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★「乱読のセレンディピティ」
外山滋比古著 扶桑社 920円+税 2014.4.5.初版第1刷 2014.6.10.第5刷
「作者絶対視に対する疑問」P.113~114より抜粋
オイラの場合で言えば、
「アフターダーク」と「海辺のカフカ」は村上春樹による予言の書、
「1Q84」は半分お説教、半分エールだと解釈をしている。
三浦しをんとデイヴィッド・ゴードンにさまざまな教唆をしたのも、
村上春樹だと解釈をしている。
振り返ると、よくもそういうことを嗅ぎつけたオイラの嗅覚にも感心している。
オイラに憑いているウィンダムの威力は、なかなか強力だってことだろう。
(このウインダムは伏見稲荷由来な眷属だ。他にも色々な眷属がオイラには憑いている)
村上文学によって、オイラは完全に救われてしまった。
自分も小説を書いてみたいという、生きる希望まで授かってしまった。
村上春樹にノーベル文学賞が授与されると、オイラは強く強く信じて疑わない。
PS:先日行ったスナック・カスタムにて、
ママが朝日新聞を読んでいるという。
これはしめたと思って、件の新聞小説について尋ねようと林真理子の「は」と言っただけで、
「私、以前からずっと林真理子って大嫌いだから、そんなもの目もくれないわ」
と返してきたので、大笑いしてしまった。
きっとこれも、セレンディピティなのでしょう、外山先生!
読者は作品にとって、決定的重要性をもっていることに、疑いの余地はない。