ここで、考えるという言葉についての宣長の考えをお話ししたいと思います。
「考える」の古い形は「かむかふ」です。
宣長はこれについて次のように説明します。
「か」は特別の意味のないことばです。
「む」は「み」すなわち自分の身です。
「かふ」は「交わる」ということです。
だから、考えるということは、自分が身を以て相手と交わるということです。
宣長の言によると、考えるとはつきあうという意味です。
ある対象を向こうに離して、こちらで観察するという意味ではありません。
考えるということは、対象と私とが、ある親密な関係へ入り込むということなのです。
だから、人間について考えるということは、その人と交わるというなのです。
そうすると、信じるということと、考えるということは、大変近くなって来はしませんか。
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★「小林秀雄 学生との対話」
講義:小林秀雄 編者:国民文化研究会・新潮社 1,300円+税
2014.3.30.発行 2014.4.25.三刷 P.48より抜粋
彼の講演CDを少し、オモロク聴いたこともあって、
この書籍に手が伸びた。
抜粋した部分は、最後の行に心が引かれるのだが、
それに対する具体的で直接的な語りはないので、理解するには大きな想像力を必要とされる。
読んでいくと、知らず知らず苦手だった哲学にも興味を持つようになる。
ベルグソンというフランスの哲学者に傾倒していた小林秀雄は、
思いの外、ムー民一族なのであった。
不思議なものを不思議と思えないで、どーするのだろう?
というニュアンスを語っている。
彼が亡くなられて、もう30年経つそうだが、
彼の著作に触れている内に、彼の人となりが浮かび上がってくる。
知れば知るほど、親しみが湧いてくる。
小林秀雄について読んでいる内に、それは彼について考えていることになっていく。
振り返ると、村上春樹の小説を読んでいる内に、彼の人となりが理解できるようになってきた。
つまり、それが村上春樹について考えるということだ。
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小林秀雄は、自身の興味あることについて、
赴くままに没頭してきた人間なのだと語っている部分がある。
(ひょっとしたら、それは他の書籍だったかもしれない)
気まぐれなネコのような性格をしている。
とてもチャーミングだ。