(略)そのあと、また対談が再開されて、そのとき私が言葉が足りないものだから、
三島さんに何か失礼なことを言ってしまった。
それはこんなことだったかと思うよ。
三島由紀夫の書いている小説は、普通の日本における私小説中心のリアリズムではない。
彼は自分でも言っていたけど、「ここにテーブルがある」と言ったら、
四本の足があるということまで描こうというような態度で書いている。
従って、三島さんの書いている小説表現の背後には
─ここで、ちょっと言葉が落ちているのだが─
われわれが私小説を読んだときに、
言葉の背後に推定しなくちゃいけない日常、現実がもつふくらみとか細部・・・・・・それがない。
「三島さんのは言葉だけで、向こう側は何もないから」と言ったもので、
あの人は誤解をしたかもしれないが、言い返さなかったよ。
私はうまく説明ができなかった。そのせいで三島さんは、
「あなたはひどいことをおっしゃる」と言ったようだった。
私はどうも、人とそういう話をするのは、あまり好きじゃなかったからね。
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★「私の文学遍歴 ~独自的回想~」
秋山駿著 作品社 1,800円+税 2013.12.1.第一刷印刷 2013.12.5.第一刷発行
P.101より抜粋
太宰との確執で有名な三島由紀夫の核心に、思いっきりドスを差し込み、ねじりまで入れている。
以前に紹介した、松本清張が評した三島由紀夫の文体に関する発言とあわせると、
書くということに関しての、ひとつの見解が浮かび上がってくる。
(でも、ここでは書かないっと。オイラだけの秘密にしておくんだぁ・・・)
オイラが思うに、
「なんで小説にリアリズムなんか必要なんだ。太宰なんて、私小説なんて大嫌いだ!」
と彼はよく言っていたようだが、
これってひょっとすると、オモロイ体験をした人間に対する嫉妬だったのではないか。
嫌い嫌いは好きの内という。
三島は実は、太宰になりたかったのではないか?
そのためにこそ、太宰にも成し遂げられなかったあの凶行に及んだ。
それは転じて、究極のリアリズムとなった。
そんな運命だったのかもしれない。
三島はあの世でも、きっと書いている。
秋山俊という人は、批評家として馴らしたということで、
著名な作家たちとの交流を描いた本書には、
さまざまなエピソードや、書くことに対するヒントが満載だ。
オモロ過ぎて困るんだけど、仕事ほっぽらかして。。
真ん中まで読んできて、他にも紹介したいことがたくさんあるが、
あまり書いてしまうと著作権にかかわるので、少し時間をおいて、忘れた頃にまた書く。
PS:若い頃、大船松竹の入社試験を受け、筆記は通ったけど面接で落ちたという。
そのとき受かった男が大島渚。
オモロクないので、彼の映画をいっさい視ていないのだという。