随所に隠喩がみられると村上春樹は書いていたが、
文学的に未熟なオイラにはさっぱりわからない。
隠喩を見抜こうという読み方をしていないのも大きいのだろう。
そこのところを、彼には解説して欲しかった。
(翻訳するくらい注意深く文章を辿っていれば、しかも作家でもあるならば、
それは簡単すぎることなのだろうけど・・・)
また彼は、この小説が宗教臭いと言っていた。
当時のニューヨーカー紙の編集者連中もそう考え、採用が否決されたという。
しかし、編集長が黙っていなかった。
文学的嗅覚に優れた編集長、ウイリアム・ショーンの鶴の一声で掲載採用が決まったという、
神秘的ともいえる作品お披露目の経緯になったという。
http://www.shinchosha.co.jp/fz/fz_murakami.html
【村上春樹特別エッセイ】
宗教臭さについては、雑誌「ムー」の購読者になるようなムー民一族ならば、
なんら抵抗のないところであり、それどころか無臭に感じるくらいだろう。
この作品に流れる宗教観は、多神教的ですらあり日本人向きだからだ。
ところで、西洋的には「神は死んだ」とされて久しい状況なのであるが、
それはキリスト教に関していえば、
一神教が崩れてきている傾向があることと、同義と考えることもできる。
行きつけのスペインママの宗教観が、実際にそーであったりする。
「地球に住む人々の話す言語が場所で違うように、見えている宗教が異なるだけなのではないか?」
そんな素朴な疑問を口にしたことがあった。
もちろん、日本に移ってきて長い年月が経っているということもあるだろう。
驚いたのは、それはオイラの体験をふまえて得た宗教観と、見事に一致するものだった。
信じて貰えなくて当然とわかってはいるが、
オイラは若い頃、ホントウに不思議体験を神社でしたのだ。
けれど、その体験は、
幼い頃にTVで視たキリスト教神父(牧師かも知れない)が体験したものと同じ現象で、
お祈りをしている時に脳内が不思議な光で満たされたというものだった。
恐怖感などは微塵も抱かず、それは強烈な至福感に満たされるものだった。
このことによって当時から、
「日本神道もキリスト教も、話す言葉が違うように見えている神が違うだけなのではないか?」
という宗教観に、オイラの考えは集約していくようになったのだ。
(だからこそその後、日ユ同祖論を知った時には衝撃が大きかった)
けれどこうした宗教観は、色々な神々に親しんでいた日本人にとって、
不思議体験など経験していなくても、ごく自然に備わっているものだ。
従って、ごく一般的な日本人が「フラニーとズーイ」を読んでも、
特段に宗教臭さというものは感じないのだろうと思う。
最後にわからない点。
どうして、どこにでもいる太ったおばちゃんがキリストだってことで、
フラニーは救われたんだろう?
ねえ、誰か、教えてくれないかな。。
★「フラニーとズーイ」
D.J.サリンジャー著 村上春樹訳 新潮文庫 630円+税 H26.3.1.発行