読みかけてやめた本はいくらでもあるが、
映画館を途中で出てしまったという記憶はほとんどない。
傑作なんてたまにしかないから、失望することの方が多いのに、
映画を見て無駄に時間をすごしてしまったという気持ちは不思議なほどない。
映画については総体としては駄作でも、どこかで楽しんでいるのだと思う。
しかし、映画の回想は、むずかしい。
昔々の「まぼろし城」は原健作にはがっかりして、
脇の戸上城太郎の方がよかったなんていったって、
見ている人は少いし、こっちの記憶もおぼろで、とりとめのない独り言のようになってしまう。
今でもDVDで見られる作品ならいいかというと、こっちが言及したいような映画については
もうたくさんの人の感想があり、たとえば「第三の男」のラストシーンにどれほど当時胸をふるわせたにしても、いまかくとなれば凡庸ではすまなくて相当の芸を要する。
記憶の中の名作を再見せずに推すと、封切りの時代の空気を知らない若い人が見て
「こんなのの、どこがよかったの」などといわれてしまう。
同年配の相手だと、今度は通じすぎて、他の世代には解説不足になるし、
ノスタルジーがつきまとうのも、わずらわしい。(2007.5)
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★「月日の残像」
山田太一著 新潮社 1,600円+税 2013.12.20.発行
「映画の周りで」P.85~86より抜粋
あの「異人たちとの夏」を書いた、脚本家のエッセイ。
その後にできた「よみがえり」は、きっとこの「異人たちの夏」が発想の源だと思う。
大船撮影所で助監督をしていた頃の話もあって、オモロイ。
高校生の頃、よく大船をフラフラしていた。
大船撮影所なんていつでも見られると思って油断していたら、なくなってしまった。
そうとう汚い現場だったらしい。
「シナリオライター」というエッセイでは、脚本家というものの悲哀を語っていた。
脚本を書いていたという遠藤憲一が、それを辞めた理由が少しだけわかった気がした。
映画を見るのは、それが駄作だとしても結局は楽しいという見解は、
小説にも当てはまると思った。
「なにこれ、つまんねー小説」などと思っても、
その作家の描写力など盗めることが多いと思えれば、結局は楽しいのだ。
それにその「つまんねー小説」を、どうやったらオモロクできるのか
考えることができれば、いつか自分がイイものを書けるのかも知れない。
「第三の男」以下に続く論評の件、なるほどそういうものかと思った。
オイラは、そういう空気を少し学ばなくっちゃいけない。
昔に書かれた小説を読む時にも、これは当てはあまりそうだ。
たしか佐藤亜紀も、そういうことを書いていた。
PS:オイラのブログは抜粋が多いのだが。
ところが、この山田太一のエッセイにも抜粋が多い。
昔っからそうやって、抜き書きノートをこしえていたのだという。
知らず知らず、こんな偉大な人と同じことをしていたのか思うと、少し嬉しい。